私がまだ8歳だったころ

ポケモンが20周年を迎えたらしい。

20年。
20年というと、新生児が新成人になる期間だ。嬰児から成人へ。20年という歳月はひとりの大人を作り出してしまう。そう考えると実に感慨深い。

サトシはポケモンマスターになるという夢を未だ果たせずにいると言う。
故郷のマサラタウンを後にした当時の彼は、この夢への旅路が20年も続くものだと知っていたのだろうか?20年という歳月は「20年」というたった一言で片がつくものでは決してなく、なにかひとつの物事を極めるために決して短すぎる期間とも言えない。しかし彼は未だにポケモンマスターではなく、話によると二合目付近をうろうろしている状況なのだと言う。彼の目指す夢の山嶺に到る道のりは険しく厳しい。

私は緑をやっていた。
ヒトカゲゼニガメフシギダネオーキド博士から最初に貰えるこれら三匹の中で、私はフシギダネを好んで選ぶ少年だった。
不細工なビジュアル。しかしそのシルエットはどことなく戦車を想起させる。あの三匹の中で最もプラモデル映えしそうなその重厚なデザインに私は惹かれた。
ポケモンを所有せざる者は立ち入ることさえ許されない危険地帯である近所の草むらで、コラッタピジョンを相手に〝たいあたり〟で経験値を稼ぎレベルを上げる私のフシギダネはすぐに〝やどりぎのたね〟や〝つるのムチ〟を覚えた。私のフシギダネはみるみるうちに強くなっていった。最初のジムリーダーであるタケシなど、相手にすらならなかった。フシギダネは頼れる相棒だった。

一方でサトシはオーキド博士の研究室でなぜかピカチュウを旅の供に選択するという愚行を犯す。
あの時、サトシがフシギダネを選びさえすれば状況は違うものになっていただろう……この愚行の裏には任天堂的な力が垣間見える。
でも後々、サトシはフシギダネを「ゲットだぜ!」するんですね。しかし主力はあくまでピカチュウであるというスタイルのブレなさにサトシの人柄の良さが滲み出ており、そしてそれは同時にサトシが伸び悩んでいる原因のひとつでもあると言える。
なにかを極める過程において、〝人の良さ〟という特性はマイナスに転じる場合がある。何かを誰かと競う場合には特に。

内閣情報調査室合田一人曰く、英雄の条件とは『童貞であること』らしい。
カスミやジョーイさん、ガールスカウトetc...日々魅力的な女性に囲まれているサトシは、はたしてこの条件を満たす存在であるか?おそらく満たしているはずだとこれは私の勝手な予想だ。ポケモン一筋のポケモンバカはやはり童貞なのだろうという偏見に満ち満ちた予想。彼にとって女体の神秘より伝説ポケモンの謎、なのだ。多分。
しかし、ガールスカウトなどは目を合わせただけでバトルを挑んで来るような娘なのである。これは逆ナンと言って差し支えない行為だろう。そんな世界においてサトシはおそらく童貞なのだ。多分。つまり彼は極めて英雄に近い存在だと言えなくはないか?あくまで予想だけど。

1年で50話。20年で1000話。

『1話は1日の出来事である』という前提で話を進めるならば、サトシの旅は約3年弱続いているということになる。元サムライジャパンの中田は何年旅してたっけ?いやいや彼は永遠の旅人なのですよ。そうですかそれは気の毒に。


しかしテレビ放映を続ける安定した視聴率を確保出来るほどの充実した日々を、サトシはほぼ毎日と言っていいほど経験し続けているということになる。3年弱を引き伸ばした20年。これは何と言うかSF的なテーマではないか?光速に近い速度で移動するサトシは《ウラシマ効果》を身を以て体験しているとかナントカカントカ。

そんな小難しい日々はおそらくロケット団あってこそだろうと思う。彼らは謂わばこの旅における《トリックスター》。秩序を乱す存在は、優れた物語を編み出すために必要不可欠な要素である。サトシの旅において、彼らの貢献度は非常に高い。こと話題の提供という点において。つまりサトシの旅とは、同時にムサシとコジローとニャースの物語でもある。サトシの物語とロケット団の物語とは直接続されている、と正確を期すならばこうだ。

物語の中にはまた別の物語があって、その物語がさらに物語を産み落とし、物語は物語の中へ無限に落ち続ける。重力は万物に作用するものであって、何ものも物語の重力から逃れることは出来ない。現実も虚構も一切合切も、そこには些細な違いすら認められず、物語は何ものに対しても常に物語として振る舞う。世界を認識することで物語は発生し、そしてそれは葉脈状の展がりを見せ、ブレイクショットの混沌性も付与されつつ、時に蜘蛛の巣状の形を成して振り出しに戻る類いのものでもある。しかし何者かが認識する以前から世界は独立してそこかしこを勝手気ままに歩いており、その中で物語を見出すのが我々なのだということを忘れてはいけない。家族との繋がり、友との繋がり、恋人との繋がり、様々な繋がりの中で分岐しては接続を繰り返す物語は喩えて脳神経のように見える。世界という巨大な生物の頭蓋で点滅反応を繰り返すのが物語であるならば、我々の繋がりは物語は世界の閃きなのだろうかと考えて、少々ロマンチシストが過ぎるなと苦笑する。出会いや別れはそんな大層なものではなく、諸行無常の響きとしてただそこにあるだけなのかも知れず、サトシの近況を私が知ったところでこの世界には道端の小石を蹴るほどの影響もなくて、ましてや閃きというほどのものでは決してあり得ないのだが、しかしポケモンマスターとは全てのポケモンとその物語を共有することでなり得る存在なのではないかと閃きに似た何かをちょいと垣間見せて、この冗長に過ぎる独り言を締めくくりたいと思う。

出会いと別れの季節にこれを記せたことはまったくの偶然である。