『大人っぽい30代』という言い回しは色々とおかしい。

矛盾について。つまり人について。

何ものも貫く矛。何ものも通さぬ盾。
以上二つの武具を用意する。用意したところで、さて、矛で盾を突いてみる。もしくは盾を矛に押し当ててみる。どうなるか?

【ケース①】
矛と盾が今まさに接しようとする直前
——fin
否、これは故事であるから画面いっぱいに〝終劇〟と出るほうが似合っている。物語はそこで唐突にリドル・ストーリーの体裁をとり、その後に起こるはずであろう展開の枝葉は我々受け手側各々に一任される。そんな洒落た結末があっても良いのではなかろうか。後ろ姿美人のスカート内部を想像することは、それなりの暇つぶしにはなる。想像や妄想は人の特権であるのだから。エンドロール後に後日談が語られる場合があるので場内が明るくなるまで決して退席はしないこと。なぜかと言って、ひょっとすると後ろ姿美人のパンチラが拝めるかも知れず、その点のみ特に留意すべし。

【ケース②】
それら二つの武具はあらかじめ交わることがない、と因果律で定められている場合。それら二つの武具を同時に用意することは出来ない。もしくは用意出来たとして、それらを使用した強度試験は常に何らかの要因によって阻まれ実行に移すことが出来ない、とする場合。矛担当者がアガリ症で常に吐気を催しているだとか、矛担当者の恐妻が電話口で絶えずヒステリーを起こしていつもなだめるのが大変だとか、例えばそんなこと。何かしらのカットイン。そしてフェードアウト。場合によってはシロナガスクジラがカットインし矛を飲みこんだりする。なんと不運な矛担当者。巻き込まれた関係者一同はシロナガスクジラの胃袋でフェードアウトする。そして『呪われた矛と盾』という都市伝説が巷間でそれとなく囁かれはじめる。噂話の脚は駿馬の如く、万里を駆ける。分厚めの単行本に収録されて、コンビニに並ぶ。

【ケース③】
矛が盾を貫く世界。盾が矛を防ぐ世界。この異なる二つの世界が同時に重なりあって存在しているという説。言わずもがな、猫の手は借りなくても良い。つまり動物愛護団体はこの説を前にして沈黙を余儀なくされる。どちらの世界に移動しようが、これは決定事項であって、つまり動物愛護団体の一員らには役が振られることはない。動物愛護団体の一員らが矛担当もしくは盾担当に任命された場合は、また別の話であるが、この二つの世界のどちらにも猫が登場する余地がないことから、動物愛護団体が関わることで別の道筋が発生し得る可能性は低いと考えて差し支えない。この矛や盾の柄などに使用されている革は哺乳類由来のものである可能性がある、よって動物愛護の見地からこれらを見過ごすことは出来ない、とかそんなことを言い出した場合は即座に②の領分となり、つまり都市伝説の出番である。

【ケース④】
それら二つの武具は厳密に言うと、
「今まで何でも貫いてきた矛」
「今まで何でも防いできた盾」
であるという場合。暫定的王者による王座防衛戦。つまり〝白いカラス〟がいないことを証明するための旅がそこにあり、そして旅の途中でもあって、旅が途中であるということは今まで確認出来たカラスはすべて〝黒かった〟のであり、矛もしくは盾がそれぞれにとっての〝白いカラス〟である可能性は充分にある、という考えは当然否定することが出来ない。破壊されずに残った片方は、さらなる強者を求めて旅の続行もしくは開始を余儀なくされ、その旅は一本の曲がりくねった上り階段に似た構造を持ち始める。最初にこの試みを始めた武具が勝負に勝ち続けるという少年誌的約束事は一切なく、幾多の王者交代がここでは行われ、王者の首がすげ替わる度に上り階段の角度方角は変わって、ついに武具が最後の一つになった時、この物語は完結するという仕掛けである。弱肉強食の極北。その強さを理解するものはことごとく地上から消え去り——ラストマンスタンディング、彼は虚無の王となる。〝白いカラス〟を探す旅に出たは良いものの、皮肉なことに私がその〝白いカラス〟だったらしい。それを認めるものは、もうこの世にはいない。私以外は。

【ケース⑤】
引き分け。
①のような映画鑑賞でもなければ、②のような運命論でもなく、③のようなパラレルめいた思考実験とも違っていて、④のような血肉を焦がす修羅道でもない。ただの引き分け。単なる引き分け。彼我の間に境を引き、そして分ける、ということ。文字通り。
この場合、引き分けを定義することが肝要である。引き分けの定義付けさえ終了してしまえばそれで終わってしまう類のものなのだから。ではどのような状況が引き分けであると言えるのか。
まず。何よりもまず。勝利条件。矛の勝利条件は、攻撃によって盾を貫く、または使用不可の状態にするということ。自身の損壊なく。盾の勝利条件は、その矛の突撃を跳ね返すということ。これまた自身の損壊なく。以上が双方の勝利条件であるなら、引き分けの定義とははたしてどのような輪郭をとるのか。おそらく同時損壊。これは双方の形状が異なっているという事実を加味している。矛が盾を貫けば矛の勝ち。盾が矛を跳ね返したのならば盾の勝ち。武具の形状が異なり勝利の条件が異なるのであるならば、やはり同時にぶっ壊れた方が引き分けとしてしっくりくる。何よりシンプルで良い。この歳になるとつくづくそう感じる。人生それ自体が迷路なのに、わざわざ自分で迷路などを作るものではない。ボルヘスは良いことを言う人である。入口と出口を結ぶ廊下は短かく真っ直ぐ。それで良い。それが良い。入口が同時に出口でいてくれるのであればなお良い。同時にぶっ壊れるのが引き分けで良い。が良い。

矛盾がぶっ壊れた場合のことを先読みして保険に入っておくことを、ここでさり気なくお勧めしておく。

なんとなれば人は矛盾で造られているのだから。

内的宇宙はドーナッツ型であるか。

『フライドピザ』という食べ物の存在を知ったとき——これはきっとアメリカ人の仕業に違いない、と即座にピンと来るものがあった。実際にそうだった。期待通りの展開でガッカリすることは珍しい。

バター、アイスクリーム、ビール、ジュースの粉……その他諸々。その都度都度。
ヤツらはなんでも揚げてきた。見境なく揚げてきた。所構わず揚げてきた。
ヤツらにとって〝食べ物を揚げる〟という行為は挨拶と同義だ。やあ調子はどうだいジョン。ジューパチパチ。そしてフライドチキンを手渡す。これもコミュニケーションの在り方のひとつ。そんな国があっても良いとは思う。住みたくないけど。

全米から揚げ物油が一斉に消えたとして、アメリカ人はおそらく3日で全滅する。きっとそうに違いない。死因は餓死というよりは未来に絶望しての〈command+option+esc〉。隣人が終了し、その隣の隣人も終了して、『そして誰もいなくなった』。ドミノ倒し。またはウェルテル効果と呼ばれるその現象はカナダ領にさえ及ぶかも知れず、しかしメキシコ人はテキーラさえあれば良いということで、きっと知らん顔を決めこむ、と私はにらんでいる。北と南では頭の作りが違ってくる。揚げ物油の一斉消滅はそれを知るものさしでもある。

アメリカ人最後の生き残りはウィル・スミスである可能性が高い、という予想はもはや予想の範疇を軽々と超えており自明の理である。最近ではマット・デイモンであるとの説も有力だが、しかしウィル・スミスには遠く及ばず、それはあくまで〝説〟なのであって、つまるところ〝説〟の域を出ていない。なぜならば、ウィル・スミスは〝説〟ではなく、〝結論〟に達しているからだ。ちなみに以前の〝結論〟はチャック・ノリスだった。そして専門家たちは主にスミス派とノリス派の派閥に分かれ、今なお激しい議論を繰り広げている。鼻差でスミス派がリード。ノリスまくれ!

カロリー×カロリー×カロリー=破壊力。
そのカロリーは13歳の少年がゲーセンの壁にめり込むほどの破壊力を有する。もしくは空手界の最終兵器が悶絶し思わず回避行動をとる。そんな類いのエグいやつ。「まだやるかい」。そう問われたとして、一東洋人の私としては遠慮願いたい。SUSHIを揚げたやつなんてほんのジャブ程度さHAHAHA。この世には〝笑えるジョーク〟と〝笑えないジョーク〟とがあって、後者はつまり揚げカスのようなものだ。うんざりするほどモタれて、なんにもならない。しかしアメリカ人はそれすら食べる。〝笑えないジョーク〟を体現している。しかも好き好んで。

カリカリとした歯ごたえさえあれば良い、とする一派がある。中身がトロッとジュワッとしていればなお良し。この見解に即した場合、味の評価は〝三の次〟くらいの位置に身を置くことになる。ちなみに、カリカリは口内を傷める恐れがあり、故にサクサク程度がちょうど良い、とする一派もあったりする。この両者のさじ加減を明確に区分することは実際のところ困難だよね、とこれは世間一般的な見解である。カリカリもサクサクも、その微妙な食感の差異はあくまでも個人の主観に依るところが多すぎ、カリカリ論者とサクサク論者とを分ける境界は曖昧に混ざり合っているというのが現状である。しかしカリカリ論者はサクサク論者を、サクサク論者はカリカリ論者を互いに軽蔑し合っていたりするのだから、この両者はカリカリとサクサクに関して一応のところ、明確な区分なり一家言なりがあるようだとの予想が成り立つ。揚げ物をウリにしている店でこの両者が鉢合わせしようものなら、きっと我々の想像をはるかに超えるどうでも良い舌戦が繰り広げられるはずだろう。折悪しく少数精鋭のパリパリ派がカウンター席に陣取っていた場合、それは三国志の様相を呈することになる。ケンタッキーで戦乱の世が幕をあける。
(補足:時間が経ち歯ごたえが失われたものこそ至高である、と考えるしっとり派は異端とされている)

とりあえず揚げる。ではなく。気づいたら揚げていた。そう。それはまるで呼吸。〝考え〟すら及ばない領域。思考の埒外。アメ公としての機能。本能に基づくところ。最終到達点はおそらく『フライド自分』。絶対になし得ないことへの圧倒的な羨望がそこにはあり、それもまた〝究極の愛〟のひとつなのかも知れない。一般には『同一化』と呼ばれる。嗚呼、カリカリになりたい。いやそこはサクサクだろ。なんだとパリパリにしてやろうか。ああ?ヤンのかこのやろう。くぁwせdrftgyふじこlp

アメリカ人はきっと頭のネジを2、3個フライヤーの中に落としちまったのさ。そしてそいつを食っちまったんだ。DoNutsてんだよまったく。

ウィル・スミスとチャック・ノリスが同じ派閥であることを切に願う。

石橋の上のハンマーブロス

石橋を叩いて渡る。

叩ける範囲だけ叩いた後で渡るのか、それともしらみつぶしに叩きながら渡るのか、はたしてどちらなのか。前者だとおそらくは石橋の入り口付近しか叩くことが出来ず、用心深い割にはなんとなく手抜き感が否めない。後者だと歩行可能な場所の全てを叩き終わる頃には石橋を渡りきってしまっている可能性が大であり、過剰に用心深い人物というよりはそのようなお仕事に従事している真面目な作業員であるということになって、つまりこの諺は諺としての機能を捨て、また違った意味合いを拾い始める。そしてもうひとつの可能性として、あくまでひとつの可能性として、ひょっとしたら石橋は崩れてしまうかも知れない。

ゴムハンマーでもってコツコツと。前方へと延びる石の集積体をコツコツと。その強度を訝しみながらコツコツと。四つん這いの姿勢でもってコツコツと。コツコツと。コツコツと。しかしこの行為は実のところけっこう危ない。
見た目が危ない。

ゴムハンマーではなく鑑識課が指紋採取する際に使用するあのポワポワだったとしたらあるいはと考えて、やはりそれでも十分に危ない見た目であるとの結論に至る。危なくても十分に格好良く決まるのは刑事という人種だけであって、ポワポワを持った鑑識課でもなければゴムハンマーを持って石橋を叩いて渡るいい歳した大人では決してあり得ない。

鉄板入りの軍靴で歩けば良いではないかというごもっともらしい指摘があるのかないのか。そもそもこの諺に対して何かしらの指摘を試みる奇態な人物が果たして存在するのかどうかという議論は一旦脇にでも置いておいて、ふむ、『置いておいて』という言葉は何となく魅力的な響きがあるなとすかさず寄り道を試みる。寄り道をする際の履物は決して軍靴ではなくツッカケが好ましいと思ってみて、しかし寄り道が本筋になり得る可能性を考えてみると、やはりランニングシューズ辺りが適切かとの結論に至る。結論はひとつの終着点であり同時に別の結論に到るための出発点としての機能も果たすのであるならば、石橋とは次の石橋へ到るために作られたもので、次の石橋は次の次の石橋に到るために作られたものなのかも知れず、しかし石橋は〝結論〟というよりはむしろ〝過程〟といった趣の方が強くないだろうかと、独りで仮説を立ててみて立てたそばから仮説をゴムハンマーで崩してみたりする。仮説は崩れたところで仮説なのだからそれも仕方なく、反して石橋はゴムハンマー程度のもので叩いて崩れる構造であってはならない。同様に鉄板入りの軍靴でぶち抜かれることがあってもならない。石橋とは堅固なものでなくてはならない。使用法を遵守する範囲においては。

物事の大概には急所が存在する。ケンシロウはそこに拳を打ち込んでから「お前はもうすでに死んでいる」と世紀末のゴロツキどもに対して無慈悲に言い放つ。そしてゴロツキどもはそんなことあるわけがないといったん訝しんでみてから壮絶な最期を遂げる。物事の大概には急所が存在しており、そこを完璧なインパクトとタイミングで突かれると世紀末のゴロツキが迎える最期に近い有様になることが知られている。死にはしないにしても死にたくなる過去を突かれて死んだも同然な体になることだって少なくない。物事の大概には急所が存在する。

いかに堅固な石橋であれ例外ではなく、急所はどこかに確かにあるはずで、そこにゴムハンマーでもって理想的な一撃を見舞ってしまうわずかな確率だってどこかに確かにあったとしても何ら不自然なことではない。病的に狂的に用心深ければ、その確率はなおさら高まる道理だ。しらみ潰しにコツコツ、コツ。ガラガラ、ガラ。あの時あの石橋のあの箇所をあの力加減で叩きさえしなければあの石橋へたどり着けていたかも知れない。
あの時あの石橋のあの箇所をあの力加減であの
あのあのあの。
〝A. No〟答は、否。
石橋は叩かれるために作られておらず、渡るために作られている。
ゴムハンマーは調べものをするために作られておらず、釘を打ち込んだり物を打ち壊したりするために作られている。
つまり

Q. 石橋の急所をゴムハンマーで叩くとどうなりますか?
A. 崩れます。

この問答は常識に照らし合わせてみて適当ではないのかも知れず、しかし堅固であるはずの石橋をゴムハンマーで叩きまくることも常識に照らし合わせてみて決して適当とは言い難いことから、条件的にはトントン、つまり世界観の一致を見ているため、一概に有り得ないとは言い難い。物事の大概には急所が存在する、ということも忘れてはいけない。

物事にはそれぞれに適した用法用量があり、やむを得ない場合を除いてそれに則して使用すべきである。
逸脱した使用法は逸脱した因果を形成するものであり、その堅固な見た目に反し脆くも石橋が崩れ去るのか。もしくは「あの人は何で石橋をゴムハンマーで叩いてるの?」と通りすがりのいたいけな少女から疑いの眼差しを向けられるのか。あるいはその両方なのか。そのような耐え難い未来が石橋をゴムハンマーで叩く人物に訪れることになる。

ゴムハンマーでなく、トンカチやカナヅチでも同様であることは言うまでもないが、トンカチとカナヅチの違いとは一体何だろうと考えてみて、ここでもすかさず寄り道を試みる。名前が違うのであれば何かが違っているのだ。履物はランニングシューズでどうぞ。

次の石橋はどこだ。

私がまだ8歳だったころ

ポケモンが20周年を迎えたらしい。

20年。
20年というと、新生児が新成人になる期間だ。嬰児から成人へ。20年という歳月はひとりの大人を作り出してしまう。そう考えると実に感慨深い。

サトシはポケモンマスターになるという夢を未だ果たせずにいると言う。
故郷のマサラタウンを後にした当時の彼は、この夢への旅路が20年も続くものだと知っていたのだろうか?20年という歳月は「20年」というたった一言で片がつくものでは決してなく、なにかひとつの物事を極めるために決して短すぎる期間とも言えない。しかし彼は未だにポケモンマスターではなく、話によると二合目付近をうろうろしている状況なのだと言う。彼の目指す夢の山嶺に到る道のりは険しく厳しい。

私は緑をやっていた。
ヒトカゲゼニガメフシギダネオーキド博士から最初に貰えるこれら三匹の中で、私はフシギダネを好んで選ぶ少年だった。
不細工なビジュアル。しかしそのシルエットはどことなく戦車を想起させる。あの三匹の中で最もプラモデル映えしそうなその重厚なデザインに私は惹かれた。
ポケモンを所有せざる者は立ち入ることさえ許されない危険地帯である近所の草むらで、コラッタピジョンを相手に〝たいあたり〟で経験値を稼ぎレベルを上げる私のフシギダネはすぐに〝やどりぎのたね〟や〝つるのムチ〟を覚えた。私のフシギダネはみるみるうちに強くなっていった。最初のジムリーダーであるタケシなど、相手にすらならなかった。フシギダネは頼れる相棒だった。

一方でサトシはオーキド博士の研究室でなぜかピカチュウを旅の供に選択するという愚行を犯す。
あの時、サトシがフシギダネを選びさえすれば状況は違うものになっていただろう……この愚行の裏には任天堂的な力が垣間見える。
でも後々、サトシはフシギダネを「ゲットだぜ!」するんですね。しかし主力はあくまでピカチュウであるというスタイルのブレなさにサトシの人柄の良さが滲み出ており、そしてそれは同時にサトシが伸び悩んでいる原因のひとつでもあると言える。
なにかを極める過程において、〝人の良さ〟という特性はマイナスに転じる場合がある。何かを誰かと競う場合には特に。

内閣情報調査室合田一人曰く、英雄の条件とは『童貞であること』らしい。
カスミやジョーイさん、ガールスカウトetc...日々魅力的な女性に囲まれているサトシは、はたしてこの条件を満たす存在であるか?おそらく満たしているはずだとこれは私の勝手な予想だ。ポケモン一筋のポケモンバカはやはり童貞なのだろうという偏見に満ち満ちた予想。彼にとって女体の神秘より伝説ポケモンの謎、なのだ。多分。
しかし、ガールスカウトなどは目を合わせただけでバトルを挑んで来るような娘なのである。これは逆ナンと言って差し支えない行為だろう。そんな世界においてサトシはおそらく童貞なのだ。多分。つまり彼は極めて英雄に近い存在だと言えなくはないか?あくまで予想だけど。

1年で50話。20年で1000話。

『1話は1日の出来事である』という前提で話を進めるならば、サトシの旅は約3年弱続いているということになる。元サムライジャパンの中田は何年旅してたっけ?いやいや彼は永遠の旅人なのですよ。そうですかそれは気の毒に。


しかしテレビ放映を続ける安定した視聴率を確保出来るほどの充実した日々を、サトシはほぼ毎日と言っていいほど経験し続けているということになる。3年弱を引き伸ばした20年。これは何と言うかSF的なテーマではないか?光速に近い速度で移動するサトシは《ウラシマ効果》を身を以て体験しているとかナントカカントカ。

そんな小難しい日々はおそらくロケット団あってこそだろうと思う。彼らは謂わばこの旅における《トリックスター》。秩序を乱す存在は、優れた物語を編み出すために必要不可欠な要素である。サトシの旅において、彼らの貢献度は非常に高い。こと話題の提供という点において。つまりサトシの旅とは、同時にムサシとコジローとニャースの物語でもある。サトシの物語とロケット団の物語とは直接続されている、と正確を期すならばこうだ。

物語の中にはまた別の物語があって、その物語がさらに物語を産み落とし、物語は物語の中へ無限に落ち続ける。重力は万物に作用するものであって、何ものも物語の重力から逃れることは出来ない。現実も虚構も一切合切も、そこには些細な違いすら認められず、物語は何ものに対しても常に物語として振る舞う。世界を認識することで物語は発生し、そしてそれは葉脈状の展がりを見せ、ブレイクショットの混沌性も付与されつつ、時に蜘蛛の巣状の形を成して振り出しに戻る類いのものでもある。しかし何者かが認識する以前から世界は独立してそこかしこを勝手気ままに歩いており、その中で物語を見出すのが我々なのだということを忘れてはいけない。家族との繋がり、友との繋がり、恋人との繋がり、様々な繋がりの中で分岐しては接続を繰り返す物語は喩えて脳神経のように見える。世界という巨大な生物の頭蓋で点滅反応を繰り返すのが物語であるならば、我々の繋がりは物語は世界の閃きなのだろうかと考えて、少々ロマンチシストが過ぎるなと苦笑する。出会いや別れはそんな大層なものではなく、諸行無常の響きとしてただそこにあるだけなのかも知れず、サトシの近況を私が知ったところでこの世界には道端の小石を蹴るほどの影響もなくて、ましてや閃きというほどのものでは決してあり得ないのだが、しかしポケモンマスターとは全てのポケモンとその物語を共有することでなり得る存在なのではないかと閃きに似た何かをちょいと垣間見せて、この冗長に過ぎる独り言を締めくくりたいと思う。

出会いと別れの季節にこれを記せたことはまったくの偶然である。

ウァレンティヌスの怪物

節分から五日が過ぎ、バレンタイン・デーが射程に入りつつある。周辺視野でその存在を主張し始めた。まったく気づかないフリは出来ないものである。

二月十四日。それは水よりもチョコよりも濃い血の涙を流して世界を憎むために存在する日。憎悪とは決意の別形態である、と好物であるチョコの購入をボイコットすることでそれを知った。単なる苦い思い出。ビタースイートなんてレトリックだ。

嗚呼、ウァレンティヌス。貴公が成し遂げた崇高なる行ないには、今や尾ひれだけでなく背びれや胸びれまで付いてしまった。真っ赤に染まるグロテスクなエラさえ見える。血のような、真っ赤なエラ。きっと不気味な魚拓が出来上がるだろう。
貴公の精神は現代に確かに根付いてはいる。しかし株分けされ日本に渡った貴公のクローンは悪の手先によって人造人間にされてしまった!クローンは様々な機能で武装し強化されている。機能が機能と干渉し衝突すらしている。しかも最も重要であるはずの魂はそれら有象無象の蛇足に押し潰されてしまい、本来の意味を失ってしまった。本末転倒。手段が目的と化している。そしてクローンはいったい何のために武装し、いったい何と闘っているのか?

「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ」

ニーチェは慧眼である。
日本のバレンタイン・デーは怪物と化した。
その哀しき怪物は、増築に増築を重ねた建築物から受ける一種不気味な印象を身にまとい、しかしそのすべては意味のない粘土のような土塊に見える。そしてその土塊の重みで自重を支えることが出来ず、もはや身動きがとれていない。日本のお菓子業界は一匹の怪物を生み出したのだ。逆チョコて何なんだよ。

その怪物は金を回すためだけに作られた。謂わば資本主義の権化であり道化であり犬である。言うまでもないが、その水底に漂う愛はウァレンティヌスのそれではなく、珍人生とは決して薔薇色ではないと身をもって証明してくれた某元有名司会者のそれである。金の亡者。うずだかく積まれた札束の摩天楼に棲む。しかしそれも愛の一種に変わりなく、愛は様々な像をとるものだと教えてくれる。騙し取ることも愛なのだよ、と嘯く。

本命チョコ。義理チョコ。最近では〝友チョコ〟なるものが優勢なのだと言う。友情をチョコで示しませんか?そういう趣向。これが俗に言うスイーツ(笑)というものであるらしく、イベント事には多少強引にでも参加せざるを得ないという習性を持つまったく奇妙な生き物だ。

幸せは手を叩くことで示されるという。
友情はチョコ。恋心もチョコ。義理という複雑な関係でさえチョコ。
当初は金儲けのために利用されたチョコという存在が、今では立派なコミュニケーションツールとして成立している。その原典はおそらく桃太郎であると予想してみて、女の子からチョコを貰ったらお供してしまいそうな自分がいて切なくなった。血の涙が頬をつたう。

最初の頃は、企業側がトレンドを用意する〝トップダウン〟の流れが優勢だったと思われるが、最近は消費者側がトレンドを生み出す〝ボトムアップ〟の風潮が強まっているように感じる。
情報化社会に生きる消費者たちは、謂わば怪物である。手軽に入手した知識で武装する怪物。しかしその知識に経験という実体はなく、つまるところハリボテであり、言うなればバレンタイン・デーと同質のものである。
現在のバレンタイン・デーに見る構図の奇妙さは、怪物Aが怪物A'を生み出し、怪物A'が怪物Aを実質的に操っているという滑稽さにあるのだろう。あれやこれやと、手を替え品を替えてチョコを売り続けてきた怪物A。ついに消費者は怪物A'となり、「こういうチョコの贈り方もアリなんじゃね?」と一人歩きし始める。そしてそれに対して「アリだと思います!」と両手を挙げて賛同する怪物A。愛のないナンデモアリという現象は笑えない。C級ホラー映画のナンデモアリは、そこに愛があるから笑えるのだ。ということで、誰かオススメのゾンビ映画教えてください。

こうしてネットで情報を仕入れる私もまた怪物なのだった。

主人公の証明 ーツンデレを手なずける方法論

私の、私による、私のためのブログ。
べ、別にアンタのために書いてるワケじゃないんだからねっ!カン違いしないでよね変態っ!

ふむ。テンプレ的な流れというものはなぜだろう、妙に居心地が良く、なかなかどうして悪くない。書いていて楽しいよ。定番は定番になるだけの理由があるんですね。

さて、この〝ツンデレ〟という特異な人種。
プラスの感情をマイナスの言動で表現してしまうという、ひどく特異で、ついでに言うとひどく不憫な人種。
もはや昨今のアニメ作品においては、ツンデレ枠というものが確実に露骨に意図的に確信犯的に設けられていますよね。その存在なしでは作品が成立しないという高みにまで達しております。
特に学園モノなんかでは〝ツンデレかぶり〟という現象まで発生することもあり、それだけにこの人種が世の視聴者たちから重宝がられていることはもはや疑いの余地がない。二人いても大丈夫むしろご褒美ですありがとうございます、という具合に。

そんな不動の四番打者でありエースとしての地位を確立したように思えるツンデレさんの影に埋もれつつも、ここ最近メキメキとその頭角を現している存在が〝変態のレッテルを貼られてしまった人畜無害な主人公〟だと思うのだがどうだろう。いや、どうだろうと言われても。

特にツンデレさん方がやたらに変態変態とうるさいですな。なぜなら一話目にしてパンツ乃至おっぱいというプライベートゾーンを目撃される、あるいは不可抗力的な接触(鷲掴み、顔を埋める等)というハプニングにツンデレさん方はしばしば見舞われるのだ。それも初対面の相手に。その相手とはもちろん人畜無害な主人公。この記念すべきファーストコンタクトによる印象は良いはずもなく、というか最悪である。ちなみにこの〝ラッキースケベ〟と呼ばれる装置は、主人公が持つお人好し加減と生来の間の悪さを端的に紹介しつつ、一方でツンデレ発見器としての役割も併せ持つ。

困ったことにこの装置、一度発動しようものなら主人公はツンデレさん方からボロクソに罵られるという運命を享受しなければならない。その棚ぼた的幸運と引き換えに、主に「クソ虫」とか言われなくちゃならない。そしてその装置は気まぐれに発動する類のもので、予測は出来ても阻止する術はない。数多くの報告例があり、つまり膨大なデータが存在しながら、しかし物語の登場人物たちは未だにそれを制御することが出来ずにいる。絶対の斬れ味を有する剣とはその威力と引き換えに、往々にして使用者の手に余るように設計されており、それを手にした者はしばしば試されることになるのである。〝ラッキースケベ〟とはつまり諸刃の剣。そしてその凶刃(罵倒に次ぐ罵倒)に耐え得る者こそが、主人公と呼ばれることを許されるのである。
しかし主人公に対して呪詛の言葉を吐き続けるツンデレさんはそれが愛の告白に等しい行為だということにはたして気づいているのだろうか?なぜならツンデレとはプラスの感情をマイナスの言動として……。

一定の需要があるからこその供給なんだろうけど、この〝誤解された変態展開〟は一体どのような層から支持されている展開なのか?
そしてその支持層が期待しているのは〝スケベ〟の方なのか、その後の〝変態呼ばわり〟の方なのか?あるいはその両方?
どちらにせよ悪魔とダンスをしたいがために魂を売り払う輩というものは、音楽が終わった後もその余韻でひとり孤独に踊れなくては務まらないものらしい。音が途絶え悲惨な現実が眼前に姿を現したとしても、かつての覚悟が失われた魂の役割を果たすのだ。パンツのためなら喜んで変態と呼ばれよう。この崇高な精神は教会のステンドグラスと比して尚、見劣りしない。

大幅に脱線することこそ、このブログの本質である。しかし話を戻そう。
ツンデレと、そして誤解された変態。
この二名は大体がところセットである。共生共存。運命共同体。カマキリとハリガネムシ……という喩えはあまり適当ではないな。とりあえずこのキャラ共は一緒にいないと互いの良さが発揮されないことが多いのである。そしてこれは特にツンデレに対して言える。
がしかし、俗に言う〝凸凹コンビ〟。こやつらは二人三脚を宿命付けられながら、せーのっ、で互いの右脚を動かしてしまうという習性を持つ、絶望的な相性の悪さで有名なのである。リッグスとマータフも凸凹コンビだけど、土壇場で抜群のコンビネーションを発揮するからまだマシだよね。
リーサル・ウェポンのレールに乗りかけている。話を戻そう。二人三脚だ。
アンタ何右脚出してんのよバカなの死ぬのどこさわってんのよこの変態クソ虫ツンデレさんはおそらくこのように罵ってくるだろうと、これは確信に近い予測である。
分かった分かったオレが悪かったよほら肩をつかんで立て遅れを取り戻すぞ、と主人公は散々に罵られたとしても前向きに考えるはずである。なんとも人が好い。
そう。主人公が持つこの〝お人好しさ〟こそ、相対する両者を結ぶミッシングリンクなのだ。

実際、身近にツンデレさんがいたと仮定してみる。これは非常に厄介であると言わざるを得ない。彼女は喩えるなら歩く核弾頭。取り扱いは外科手術の慎重さでどうぞ。出来るならばこの橋渡るべからず。よっしゃ、そんじゃ真ん中渡ったれ。ハッハこやつめ言いよる。いやそうじゃなくて。
何と言うか、ツンデレさんとは考えるだに面倒くさいことこの上ない相手であるのは間違いない。「彼女、素直じゃないだけなのよ」。オーケイもう分かったそれ以上言うな。と思ってしまうのは私の性格が捻じ曲がっているせいですが。
まあでも身近に〝ましろ色シンフォニーの紗凪〟的な人物がいると想像した場合、やはり私は積極的な接触を避けるだろうと思う。触らぬ神になんとやらだ。まったく七面倒臭いことになる。いやきっと八くらいは面倒臭い。
あの手の手合いを相手に出来る人物とは、きっと仏レベルのお人好しなのだろうと勝手に想像してみる。何を言われようと柳に風。暖簾に腕押し。つまり柔よく剛を制す。左を制す者は世界を制すものだと相場で決まっているものだし、それはお人好しとツンデレの関係にも言えるのではないか?つまりお人好しを制す者はツンデレを制す。
お人好しの中のお人好し。King of お人好し。そんな心の持ち主がツンデレを手なずける。つまり〝主人公〟と呼ばれる存在になり得るのである。

外見は没個性的であり、すべてにおいて平均的に見える主人公。
しかしその精神は、変態じゃないのに変態と呼ばれ続けてもなお折れぬしなやかさと、荒ぶるツンデレ神を包み込むほどの心の広さを併せ持つ、ハイスペックメンタルの持ち主なのだ。
常人に見え、常人に非ず。
頭が高い。ツンデレ共は分を弁えよ。

なので、見た目は一般人でのらりくらりとしているように見えるのにツンデレやその他諸々の女の子に囲まれる学園生活を送っているというハーレム主人公が嫌いだ、という方は認識を改めてみてはいかがか?


【まとめ】
・東大を出てから「東大なんて……」と言おう。
・素直になろう。


ところで最近は〝最弱言われてるけど実は強かった主人公〟という設定も
〈command+option+esc〉

なぜ休日に雨は降る

たとえその確率が30%だとしても雨に降られてしまうのが、つまりその、人生なのだ。

週に一日だけやって来る貴重な休日。週に一日だけやって来るということはつまり月に約四日ほどやって来るということだ。ちなみに年で考えるとだな……

ということで、私にとって休日とはとても貴重な存在なのである。単純計算で通年アニメと同じ日数しか存在しないという、とても待ち遠しい存在なのだ。そしてそのアニメは予約録画出来ないと来た。絶対に見逃せない。

もうお判りだとは思うし、あくまで補足として一応念のために言っておくが、連休などは存在しない。連休連休連キュウ……レン……キュウ。私の中で、その言葉はハリボテである。意味などとうに失われ、向こう側がぼんやりと透けて見える空っぽの容れ物。あるいは口裂け女人面犬。これらの都市伝説は、往々にして知人の知人の兄や姉の目撃例でのみ語られ得るという謂わばドーナッツ状の存在であり虚であるということでその一致を見ている。
相違点を強いて挙げるとするならば、目下都市伝説の体験者であるとされる知人の知人の兄や姉という存在が、ただより近しい知人という存在にすり替わっただけの話だ。
私にとって連休とはそういう類のものだ。

まあ今日がつまり一週間ぶりの休日だったわけですが、残念なことに雨に降られた。何か先日のブログでこんな話したような気がするな。
それは、ぽつ……ぽつ……というふうに、非常に弱い雨ではあったのだが、しかしそれは大した問題ではない。問題なのは

玄関を出るまではバッチリ晴れていたのに!

という点にこそある。

「私何か悪いことでもしましたか?」
と、空に聞いてみたくなるこの現象。自身の間の悪さを再確認するためだけに存在する実に陰湿で陰険なこの現象。何なんでしょう?割とマジに。俺が何したって言うんだよ。

ここで京極夏彦氏が言うところの〝嫌な予感は嫌な現実を誘引する〟という考えに則ってみる。

曇りという予報だったのに今は晴れているな。たとえ曇ったとしても、何なら夜は晴れるとの予報だったし、まあ降りはしないだろう。晴れている空を見たら普通そう思うじゃん?だけど降られた。
私はこの時別段〝嫌な予感〟というものを感じてはいなかったと記憶している。だけど降られた。降りそうになかったのにもかかわらず。降水確率は30%だったのにもかかわらず。
なぜか?

こう考えてみる。
ひょっとすると、まったくの同時刻、私が見上げた空と同じ空を見上げ、私と同じく天気のことを思った何者かがいたのかも知れない。
そしてひょっとすると、その何者かは、〝嫌な予感〟に取り憑かれてしまったのかも知れない。雨降ったらやだなあ、と。そしてその彼もしくは彼女は、傘を持たずに家を出てしまったのだ、と。

だとすれば、ある程度納得がいく。今日の〝30%でも降ってしまう雨〟という擬似パラドックス的天候にも。きっと何者かが抱いた〝嫌な予感〟が雨雲を呼び寄せたのに違いない。

嫌な予感は嫌な現実を引き寄せ、嫌な現実は周囲に感染する。
そのように人々の思考はどこか深い場所で相互に繋がっていて、見ず知らずの彼や彼女の人生に知らず識らずの裡に干渉しているのかも知れない。

降水確率30%でも雨に降られてしまうということ。
それは彼らや彼女らの、そして私の人生。

現時刻0時30分。
外は雨。
予報は当てにならない。