『囚われた男』

 そしてDは背中に走る痛みで目を覚ました。

 どうやらおれは眠っていたらしい。Dは背中に鈍痛を覚えながらそう思った。はたしてどのくらいのあいだ眠っていたのか、それは定かではなかったが、しかしDには眠ろうとした記憶がなかった。目を覚ましたことで自分は今の今まで眠っていたのだと知った。
 目を覚ましたDがまず最初に目にしたものは白い天井だった。真白い天井。Dは、ここは病院かも知れないなと思った。それも最近建てられたばかりの。しかし、Dは自分が病院に運ばれなければならない何らかのもっともらしい理由を引きずり出すことができなかった。そしてこう思った。ひょっとするとここは病院ではないのかも知れないぞ、と。そもそもの話、背中が痛むではないか。背中が痛むということは、つまり自分が寝ている場所は少なくともベッドの上ではないということで——。
 であればきっとここは病院ではないだろう。Dの脳髄は背中に硬質な触感を覚えながらそのような一連の思考を瞬時に行い、そしてひとつの結論に達した。今おれが寝ているこの場所は〈どこかの床の上〉であり、そしてそれは〈病院ではないどこか〉である。
 何となくの閉塞感を自身の右側に感じたDは次に右を視た。間近に壁があった。その壁は一瞥して天井と同じ材質であると判断でき、この部屋は——Dはなぜか自分がいる場所は部屋であると直感的に悟った——おそらく全体が同質の素材で形成されているのではないか、Dはそう推測した。右手を伸ばせば壁に触れることのできる距離だったが、しかしそうはしなかった。なぜかは判らないが、躊躇われた。Dは無意識のうちに得体の知れない不安を覚えていた。この感じ、以前どこかで——。
 右腕を支えにして上半身を起こしたDは、まずはこの部屋を検める必要があると思った。ここがどこで、なぜ自分がここにいるのか、それらの問いにはきっと明確な答えが存在するはずであり、その答えはおそらくこの部屋がもたらしてくれるに違いない。そういう漠然とした予感があった。Dはその答えとやらを得るべく部屋を見回した。
 周囲には空間があった。空間だけがあった。何もない空間だけが。
 いや、正しくは床と天井と壁があった。その部屋は、おそらくは立方体、あるいはそれに近似する構造をした六面体であると思われた。そしてその部屋は次の一文字で表すことができた。
 箱。
 その部屋はまるで箱だった。箱の、その内側。
 何ものも寄せつけぬほどに完璧に滑らかな真白い天井、壁、床。それらはまるで完全に安定した未知の素材によって形成された想像上の構造物のようであり、この部屋はきっと未来永劫その完全さを保持し続けるはずだ、とDはおぼろげに思った。おそらくこの部屋のどこかに光源が存在し、それが発する青白い光を反射することで天井が白く光って見えているのだと気づいてはいたが、それでもなお天井それ自体が内側から発光しているように思えてならなかった。材質は不明。Dは再び得体の知れない不安を覚えていた。それは説明のつかない既視感だった。
 ——見覚えのない部屋なのだが。
 以前に似たような場所を訪れたことがあっただろうかとDは自身の記憶を探ったが、やはり心当たりはなく、既視感は身元不明のままDの心中に居座った。不気味なジョン・ドゥ。Dはそいつに早く名前を付けたかった。この部屋を改めるべきだと思った。
 なるべく音を立てないように気を遣いながら立ち上がった。
 Dは出口——あるいは出入り口——を探した。これはほとんど無意識による行為と言えた。すなわち〈退路の確保〉。生存という原始的本能を基とする首及び腰の稼動で部屋を具に観察した。しかしその甲斐もなく、出口、あるいは出入りらしきものを見つけることはできなかった。一見してこの部屋は完全なる密室なのだった。
 つまるところDは不可解極まる状況の真っただ中にいた。〈出入り口の見当たらない部屋の中にいる〉という不可解極まる状況。
 ——おれはどうやってこの部屋の中に入ったのか?
 Dはこの状況をでき得る限り冷静に受け止めなくてはならない立場にあった。人はとかく最悪の場合を考えがちな生き物である。その最悪に魅入られ、恐慌をきたしてもおかしくない状況にDはあった。もしも、この部屋から出られなかったとしたら……。死神の思考回路。
 Dは自身の左手首に巻いてある腕時計のデジタル表示を確認した。〈11:28AM/tue/8.24〉とある。まいった。二時間半の遅刻だ。Dは上司へ報告する遅刻の言い訳を考えはじめた。経験上、上司はまずどこにいるのかということを訊いてくるに違いない。しかし何と返せばよいのか。いっそのこと正直に言うべきだろうか。真白い部屋に閉じ込められています。駄目だ。意味が分からない。
 ——なぜおれは遅刻の言い訳などを考えているのだろう?
 莫迦げた話だ、とDは己の思考に唾を吐きかけたい気分になった。おれは今〈出入り口の見当たらない部屋の中にいる〉のだ。遅刻以前の問題だろう。まずはこの部屋から出る。そしてここがどこなのかを確かめる。話はそれからだ、上司に報告するのは、それからだ。Dは凝り固まった身体をほぐすべく、軽いストレッチを行なった。相当、強張っていた。
 Dは自分が寝巻き姿でないことに気づいた。
 白地に水色のピンストライプが走るワイシャツにグレーのスラックスで足元は黒の靴下、という恰好をしていた。ジャケットと革靴及びネクタイは身につけていなかった。シャツの第一、第二ボタンが外れており、はだけた胸元からはくたびれた下着がのぞいていた。正確には下着だけではなく、身につけているすべてがくたびれていた。まさに仕事帰りそのものといった風体だった。
 Dは昨日の自分を思い出そうとしていた。眠りに落ちる前の自分を。しかし思い出せなかった。一ヶ月前や一週間前の記憶が思い出せないのは分かる。だがDが思い出せないのは昨日の記憶だった。Dは自分がそれほどまでに耄碌しているとは思えなかったし、故にDは一時的な記憶喪失を疑った。昨日の出来事にまつわる記憶だけを一時的に喪失するという超局所的でご都合主義的な記憶喪失を。しかしそれを疑ったことをDは即座に後悔した。そんな都合の良い話はないだろう。Dはご都合主義というものに対してほとんど生理的な嫌悪を示す類いの人物だった。
 しかし依然として昨日の記憶は蘇らず、Dは頭の中の、特に昨日に関する記憶が留めてある部分の門前に得体の知れない何か——説明のつかない既視感だろうか? ——がどうしようもなく立ちふさがっているような気がしてならなかった。現に一昨日の記憶はあった。書店に行き、本を買い、それを家で読んだ。それだけの休日だった。では昨日は何をした? 思い出せない。おそらく——おそらくだと? ——仕事をしたのだろう、とおおよその予想はつくが、それは予想であって予想以外の何ものでもなく、そしてDは決して予想をしたいのではなかった。Dが強く希求するものは、一昨日の記憶を思い出すように昨日の記憶を思い出す、ただそれだけのことだった。ただそれだけのことが、しかしDにとってはこの上なく困難なことであり、知らず宙をさまよっていた虚ろな目線は真白な天井の取っ掛かりのない表面をひたすらに滑るだけの機械だった。
 Dは再び部屋を改めることにした。
 見渡す限り何もない部屋だと思っていたDだったが、しかしあるにはあった。それは極限まで無駄を排した工学的な簡潔さから来る機能美的な説得力を持ったL字の形状をしていた。色はその説得力をさらに補強するつや消しの黒だった。それは見れば見るほどに銃としか思えない代物だった。そしてそれはDの足元に転がっていた。まるで書店に本があるように、あるいは服屋に服があるように、当然性を伴いながらそれはそこにあった。かなり自然にあったものだから、Dは、きっとこの部屋にとっては自分こそが異物なのかも知れないな、とさえ思ってしまった。Dは非常に月並みな反応だが息を飲んだ。そして三歩ほど後じさった。
 Dはさらに部屋を見回した。何者かの影を探した。この部屋に銃を持ち込んだ何者かの影を。しかし部屋にはD以外誰もいず、そのことに少しだけ安堵した。一方で気味悪くも思った。ではなぜここに銃が?
 Dはこの異様な状況を納得したかった。納得できる何かしらの解答を求めていた。しかし部屋には不気味な存在感を放つ銃と思しきものと、非道く落胆しているDの姿だけがあった。つまりDの求めている解答とやらは見つかりそうになかった。
 ——この銃と思しきものが自分の求めていた解答なのかも知れない。
 Dはそう考えてみたが、この禍々しきものが何かの答えであるはずがない、と即座に思い直した。その思考はこう言い換えることが可能だった。こんなものが答えであってたまるか、と。しかしその銃と思しきものがDにもたらした無情で不吉にすぎるひとつの解答は非常に強固なものだった。その解答はとにもかくにも物騒この上なく、己の脳裏に去来してしまった禁忌の想像にDは戦慄した。
 ——銃口にはこめかみがよく似合う。
 Dは頭を振った。その挙動は、己の裡から生まれ出たものとは到底思えぬ破滅衝動に対する精一杯の反抗だった。がしかし、塵すらも振り払えそうになかった。それはあまりにも力なく、どうやら動かすのがやっとのようで、且つ激しく体力を消耗している、というふうな挙動だった。
 そこでDは自分が疲労していることにようやく気づいた。それはまるですべての筋繊維の一本一本に泥を塗りたくられたような疲労だった。立っていることさえ億劫だった。いっそのこと、座ってしまいたかった。しかしDは座るという行為を本能的に拒否した。それはDにとって漠然と〈死〉を連想させる行為だった。そのときのDにとって休息とは即ち、嗅いだことのない硝煙の匂いであり、血肉を焦がす致死の熱鉄だった。今ここで座ってしまったら〈死〉に近づいてしまう。精神的にも、物理的にも。Dは、だから立ち尽くした。ハンドポケットのまま。
 そのとき、右の指先が何かを捕らえた。
 その感触は、しかし携帯にしては小さすぎるものだった。Dは訝しみながら右手をポケットから引き抜き、その正体を確認した。
 それは握りつぶされたしわくちゃのレシートだった。
 Dはしわを伸ばした。コンビニのレシート。カツサンド、税込450円、と印刷されている。500円が支払われ、50円のお釣り。購入した時刻は、8月23日の22時9分。
 8月23日22時9分。
 Dは食い入るようにレシートを——特にカツサンドの購入時刻が記されている箇所を凝視した。その時、Dは明らかに銃と思しきものの存在を忘れていた。凝視とはつまり、ある意味においては盲目的な状態なのだった。それは見間違いであるという可能性を極限まで排除せんとする強固な意志によって為される能動的な盲目であり、そして忘れてはいけないことのひとつとして、盲目的な状態とはそのほとんどが良い結果を生まない。
 8月23日22時9分。8月23日22時9分。8月23日22時9分。
 Dは腕時計の液晶画面を見た。11:31AM/tue/8.24。やはりそうだ。間違いない。
 ——これは昨日発行されたレシートだ。
 Dはそう結論付けた。そう結論付けたのだが、しかしこうも思った。
 ——だからどうだというのか。
 このレシートを見て分かったことといえば、〈おれは昨夜カツサンドを購入したらしい〉ということだけであり、それが分かったところで現状の不可解な記憶喪失を打破出来る保証はどこにもない。しかもよりによって〈らしい〉ときた。確かにおれはカツサンドを好んでよく食べるが、だからといってこのレシートが本当に〈おれがカツサンドを購入した際に発行されたレシート〉なのかどうかは実際のところ非常に怪しく、そう断言できるだけの証拠をおれは持ち合わせていない。確率は低いが〈他人がカツサンドを購入した際に発行されたレシート〉かも知れず、疑いだせばきりがないのは百も承知だが、しかし昨日の記憶がないのであるから仕方がない。つまり、現状において偉大なる確率論は無用の長物に過ぎず、いやそもそもの話このレシートが誰のものであろうとおれが今置かれているこの状況にはあまりにも関係がなく、これからもこのレシートはただのレシートとして在り続け、おそらくはこの部屋も同様だろう。つまるところレシートと部屋は直接の関係がないのだった。レシートにまつわる記憶を引き出せたとして、この部屋から脱出することは出来ないだろう。しかし糸口にはなるかも知れない。レシートが思わぬ着火剤となり、そして昨日の記憶を思い出すことが出来れば、あるいは出入り口の所在も……。
 しかしレシートはレシートで在り続けることに決めたらしく、決して着火剤になることはなかった。何も思い出せなかったDは慣用句的意味合いではなく実際に肩を落とした。それはまるで白旗を振るような速度を伴った落下だった。自然と目線が足元に落ちた。
 右足のすぐそばに銃と思しきものがあった。
 Dは、確かおれはこいつから距離を置いたはずだが、と数分前にとったはずである己の行動を反射的に思い返したのだったが、すぐさま、はたしておれは本当にそうしたのだろうか、という疑念を抱いた。そしてその考えに取り憑かれてしまった。Dは、今現在のおれの記憶のほとんどは不確かで疑わしいものであり、そして記憶を疑うということは自分自身の存在そのものを疑うということにも繋がり、おれは本当におれなのか、という思考の道筋を辿ることで極度の自己不信に陥ってしまったのだった。そうしてDは、まるで時計の針の進行が徐々に遅れるようにそれとなく、そして確実に狂っていった。狂う準備をはじめていた。
 しかし、Dはすぐに少しだけ正気を取り戻した。きっかけは下腹部を襲ったむず痒さだった。そしてまずいな、と思った。そのむず痒さは紛れもなく尿意であり、しかし我慢できないほどではなかったが、それも時間の問題に思われた。
 Dは歩くことにした。
 銃と思しきものから距離を置き、部屋の中を歩いた。紛れもない尿意から気を紛らわすため、Dは歩いた。歩いて歩いて、歩いた。しかし尿意から遠ざかることはできなかった。むしろそれは近づいてきた。それでもDは歩いた。どうやらここにトイレはなさそうだし、他にやることがなかった。
 Dは部屋の隅に移動した。その地点を ⑴ とした。
 ⑴ を起点に、部屋の隅から隅へと壁伝いに、そして反時計回りに歩くことにした。次にたどり着いた隅を ⑵ とし、その次を ⑶ 、次を ⑷ とした。
 ⑶ と ⑷ のちょうど中間、その壁際付近に銃と思しきものがあった。
 Dは、だから、⑶—⑷ 間を歩かずに ⑶—⑴ と歩き、そのおそらく直角三角形と思われる道順を周回することで尿意と格闘することにした。
 ⑴—⑵ 間と ⑵—⑶ 間は同距離だろう、とDは感じた。歩数を数えた結果だった。
 であれば ⑴ ⑵ ⑶ で結ばれたこの直角三角形の道順は直角二等辺三角形を成しているということになる、とDはとりとめのないことを考えた。考えつつも、しかし尿意は下腹部を震源にその存在感を増すばかりで、状況が好転する兆しは一向に見られなかった。それでもDはとりとめのないことを考え続けようとした。ワイシャツは冷や汗で湿り、喉は非道く渇いていた。皮肉なものだ、とDは思った。自分もこの水分のように内から外へと出ていきたかった。トイレのないこの部屋から。
 Dが放ったのは23周目のことだった。
 非道く黄ばんだその液体は ⑵ に向かって放たれた。ほとんど壁を貫かんとする勢いだった。つまりそれは、打楽器さながらといった破裂音を伴い、Dが予想した以上の時間をかけ、その真白い壁を叩いたのだった。打音が部屋中にこだました。それはDの内なる絶叫に違いなかった。壁よ、砕けろ。
 放物線は次第に勢いをなくし、ちょろちょろとDの足元に近づいた。
 疲れきった尿の飛沫が靴下とスラックスの裾に跳ねた。その部分だけが濃く変色した。まるでほくろのようだとDは思い、増え続ける染みを見るともなく見つめ続けた。この描写は——夢にしては良く出来ている。
 Dは、現状は夢の中の出来事なのだと判断することにした。
 今自分が置かれているこの状況がそもそも夢なのだとしたら、すべてに説明がつく。この異質な空間も、突然出現した銃と思しきものも、昨日の記憶がないことにも——すべてに。
 ——すべては夢なのだ。
 このひと言ですべてが片付いた。Dは、だから、そう思うことにした。しかし、すべてが夢だとして、夢の中で排尿してしまったことが唯一気がかりと言えばそうだったが、まあ、すでにやってしまったのだから考えても仕方がない、とDは現実世界でおそらく起こったであろう不随意の生理現象について深く考えないようにした。
 Dの思考は簡略化されつつあった。
 そう言えば聞こえは良いが、単に熟考を放棄したに過ぎなかった。体外に排出された大量の尿とともに、考える力も流れ出てしまったようだった。知らず、先ほどまで嫌悪し続けていたご都合主義とやらにすがっていた。アイデンティティを喪失していた。
 部屋に饐えた臭いが充満するころ、Dは社会に属する人としての有り様のほとんどを脱ぎ捨てていた。現状がたとえ夢だろうと現実だろうと、そんなことはどうでもよかった。床で寄る辺をなくしているくたびれたワイシャツ及びしわくちゃのスラックスは、まるで高速道路上の軍手のようにあわれで、靴下はアスファルトで干からびてしまった蚯蚓のように切なかった。下着姿のDは、あぐらをかき、ただひたすらに茫としていた。猫背が描く歪な曲線だけが、唯一この部屋の完璧さに対する抗いのようにも見え、それは朽ち果てていくことを至上の目的として定めたかのような座姿だった。退廃こそ勝利、とでも言うような。
 ——。
 どれくらいの時間が経過しただろうか。ふと、Dの右膝が金属的な冷たさを捉えた。Dの思考はすでに簡略化され過ぎていて、熟考の放棄と言うよりはむしろ思考を放棄している域にまで達していたのだが、しかし、しっかりと、右膝からのシグナルを捉え、刹那、その冷たさの正体を見破っていた。
 なぜならその冷たさは不吉そのものだった。
 誘われるように自分の右膝を見やった。それはあった。
 Dはそれがそこにあることをすでに知っていて、そしてこれから己の身に降りかかる——あるいは自ら起こす——事態の結末さえすでに知っていた。知り過ぎるということは、存外、悲劇的なことなのかも知れなかった。
 Dはそれに手を伸ばした。
 見た目以上に重かった。そして恐ろしく手に馴染んだ。握りは硬かったが、しかし手に吸い付くようだった。それは〈手放せない〉というよりはむしろ〈手放したくない〉という形容に値する引力だった。死神との握手は快楽そのものだった。
 ——銃口にはこめかみがよく似合う。
 耳元でそう囁かれた気がした。いや、実際それはDの独り言だったのかも知れなかったが、しかし、いずれにせよ、その暗示的な言葉はDの意識に融け——いや、意識を融かした。表層ではなくその奥底、根底、目に見えぬ黒き激流が支配するDの無意識層の闇に、その鉛のような言葉はいともたやすく届き、脂汗のようにまとわりついては即座にそれを侵食した。その瞬間、Dの意識——そして無意識——は、まるで熱湯を浴びせられた新雪のようにその状態を変化させた。文字通り、それは雪融けだった。
 ——なぜこんな簡単なことをおれは。
 Dは知らず昂ぶっていた。いつの間にか背筋が伸びていて、こめかみに血管が浮いているのが分かった。銃口は冷たく、つまりおれが火照っているのだろう。右の手のひらは汗ばんでいて、不吉との融和性が高まる。視野は円から線に、ついには点となり、何もない真白な床を見つめている。瞬きは忘れた。呼吸音や心音さえ知覚されない白の世界だった。Dの意識はすでに白の世界——いや、その彼方へと遠退いていた。何ものも寄せつけぬほどに完璧に滑らかな白の世界のその彼方。
 ——それはこの部屋だ。
 簡単なことだった。
 あとは不吉を——死を取り入れるだけだった。
 指を絞った。

✳︎

 という掌篇を書き終えたDは知らぬ間に眠ってしまっていた。夜勤中に思いついた掌篇だった。推敲をする体力は残っていなかった。食べかけのカツサンドを押しのけ机上に突っ伏し、背中の上下動は緩やかで規則正しかった。刻一刻と意識外の深みへと沈んでいくのが分かった。夜勤明けのDは大抵そうだった。窓は黒いカーテンによって覆われ、初秋の曙光は完全に締め出されていた。青白く発光するディスプレイだけが部屋唯一の光源として稼働しており、Dの血色の悪い相貌を暴いていた。まるで虫の羽音にも聴こえるHDDの控えめな駆動音が、部屋におりる静寂を一層際立たせていた。睡眠を貪るため携帯のアラームはセットしていなかった。携帯はバッグの中に入れたままだった。いつもの光景だった。
 きっと夢を見ることさえないだろう。
 見たとしても覚えていないだろう。
 夢は忘れるためにある。
 いつもそう。

✳︎

 そしてDは背中に走る痛みで目を覚ました。
 どうやら俺は