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ウァレンティヌスの怪物

節分から五日が過ぎ、バレンタイン・デーが射程に入りつつある。周辺視野でその存在を主張し始めた。まったく気づかないフリは出来ないものである。

二月十四日。それは水よりもチョコよりも濃い血の涙を流して世界を憎むために存在する日。憎悪とは決意の別形態である、と好物であるチョコの購入をボイコットすることでそれを知った。単なる苦い思い出。ビタースイートなんてレトリックだ。

嗚呼、ウァレンティヌス。貴公が成し遂げた崇高なる行ないには、今や尾ひれだけでなく背びれや胸びれまで付いてしまった。真っ赤に染まるグロテスクなエラさえ見える。血のような、真っ赤なエラ。きっと不気味な魚拓が出来上がるだろう。
貴公の精神は現代に確かに根付いてはいる。しかし株分けされ日本に渡った貴公のクローンは悪の手先によって人造人間にされてしまった!クローンは様々な機能で武装し強化されている。機能が機能と干渉し衝突すらしている。しかも最も重要であるはずの魂はそれら有象無象の蛇足に押し潰されてしまい、本来の意味を失ってしまった。本末転倒。手段が目的と化している。そしてクローンはいったい何のために武装し、いったい何と闘っているのか?

「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ」

ニーチェは慧眼である。
日本のバレンタイン・デーは怪物と化した。
その哀しき怪物は、増築に増築を重ねた建築物から受ける一種不気味な印象を身にまとい、しかしそのすべては意味のない粘土のような土塊に見える。そしてその土塊の重みで自重を支えることが出来ず、もはや身動きがとれていない。日本のお菓子業界は一匹の怪物を生み出したのだ。逆チョコて何なんだよ。

その怪物は金を回すためだけに作られた。謂わば資本主義の権化であり道化であり犬である。言うまでもないが、その水底に漂う愛はウァレンティヌスのそれではなく、珍人生とは決して薔薇色ではないと身をもって証明してくれた某元有名司会者のそれである。金の亡者。うずだかく積まれた札束の摩天楼に棲む。しかしそれも愛の一種に変わりなく、愛は様々な像をとるものだと教えてくれる。騙し取ることも愛なのだよ、と嘯く。

本命チョコ。義理チョコ。最近では〝友チョコ〟なるものが優勢なのだと言う。友情をチョコで示しませんか?そういう趣向。これが俗に言うスイーツ(笑)というものであるらしく、イベント事には多少強引にでも参加せざるを得ないという習性を持つまったく奇妙な生き物だ。

幸せは手を叩くことで示されるという。
友情はチョコ。恋心もチョコ。義理という複雑な関係でさえチョコ。
当初は金儲けのために利用されたチョコという存在が、今では立派なコミュニケーションツールとして成立している。その原典はおそらく桃太郎であると予想してみて、女の子からチョコを貰ったらお供してしまいそうな自分がいて切なくなった。血の涙が頬をつたう。

最初の頃は、企業側がトレンドを用意する〝トップダウン〟の流れが優勢だったと思われるが、最近は消費者側がトレンドを生み出す〝ボトムアップ〟の風潮が強まっているように感じる。
情報化社会に生きる消費者たちは、謂わば怪物である。手軽に入手した知識で武装する怪物。しかしその知識に経験という実体はなく、つまるところハリボテであり、言うなればバレンタイン・デーと同質のものである。
現在のバレンタイン・デーに見る構図の奇妙さは、怪物Aが怪物A'を生み出し、怪物A'が怪物Aを実質的に操っているという滑稽さにあるのだろう。あれやこれやと、手を替え品を替えてチョコを売り続けてきた怪物A。ついに消費者は怪物A'となり、「こういうチョコの贈り方もアリなんじゃね?」と一人歩きし始める。そしてそれに対して「アリだと思います!」と両手を挙げて賛同する怪物A。愛のないナンデモアリという現象は笑えない。C級ホラー映画のナンデモアリは、そこに愛があるから笑えるのだ。ということで、誰かオススメのゾンビ映画教えてください。

こうしてネットで情報を仕入れる私もまた怪物なのだった。