主人公の証明 ーツンデレを手なずける方法論

私の、私による、私のためのブログ。
べ、別にアンタのために書いてるワケじゃないんだからねっ!カン違いしないでよね変態っ!

ふむ。テンプレ的な流れというものはなぜだろう、妙に居心地が良く、なかなかどうして悪くない。書いていて楽しいよ。定番は定番になるだけの理由があるんですね。

さて、この〝ツンデレ〟という特異な人種。
プラスの感情をマイナスの言動で表現してしまうという、ひどく特異で、ついでに言うとひどく不憫な人種。
もはや昨今のアニメ作品においては、ツンデレ枠というものが確実に露骨に意図的に確信犯的に設けられていますよね。その存在なしでは作品が成立しないという高みにまで達しております。
特に学園モノなんかでは〝ツンデレかぶり〟という現象まで発生することもあり、それだけにこの人種が世の視聴者たちから重宝がられていることはもはや疑いの余地がない。二人いても大丈夫むしろご褒美ですありがとうございます、という具合に。

そんな不動の四番打者でありエースとしての地位を確立したように思えるツンデレさんの影に埋もれつつも、ここ最近メキメキとその頭角を現している存在が〝変態のレッテルを貼られてしまった人畜無害な主人公〟だと思うのだがどうだろう。いや、どうだろうと言われても。

特にツンデレさん方がやたらに変態変態とうるさいですな。なぜなら一話目にしてパンツ乃至おっぱいというプライベートゾーンを目撃される、あるいは不可抗力的な接触(鷲掴み、顔を埋める等)というハプニングにツンデレさん方はしばしば見舞われるのだ。それも初対面の相手に。その相手とはもちろん人畜無害な主人公。この記念すべきファーストコンタクトによる印象は良いはずもなく、というか最悪である。ちなみにこの〝ラッキースケベ〟と呼ばれる装置は、主人公が持つお人好し加減と生来の間の悪さを端的に紹介しつつ、一方でツンデレ発見器としての役割も併せ持つ。

困ったことにこの装置、一度発動しようものなら主人公はツンデレさん方からボロクソに罵られるという運命を享受しなければならない。その棚ぼた的幸運と引き換えに、主に「クソ虫」とか言われなくちゃならない。そしてその装置は気まぐれに発動する類のもので、予測は出来ても阻止する術はない。数多くの報告例があり、つまり膨大なデータが存在しながら、しかし物語の登場人物たちは未だにそれを制御することが出来ずにいる。絶対の斬れ味を有する剣とはその威力と引き換えに、往々にして使用者の手に余るように設計されており、それを手にした者はしばしば試されることになるのである。〝ラッキースケベ〟とはつまり諸刃の剣。そしてその凶刃(罵倒に次ぐ罵倒)に耐え得る者こそが、主人公と呼ばれることを許されるのである。
しかし主人公に対して呪詛の言葉を吐き続けるツンデレさんはそれが愛の告白に等しい行為だということにはたして気づいているのだろうか?なぜならツンデレとはプラスの感情をマイナスの言動として……。

一定の需要があるからこその供給なんだろうけど、この〝誤解された変態展開〟は一体どのような層から支持されている展開なのか?
そしてその支持層が期待しているのは〝スケベ〟の方なのか、その後の〝変態呼ばわり〟の方なのか?あるいはその両方?
どちらにせよ悪魔とダンスをしたいがために魂を売り払う輩というものは、音楽が終わった後もその余韻でひとり孤独に踊れなくては務まらないものらしい。音が途絶え悲惨な現実が眼前に姿を現したとしても、かつての覚悟が失われた魂の役割を果たすのだ。パンツのためなら喜んで変態と呼ばれよう。この崇高な精神は教会のステンドグラスと比して尚、見劣りしない。

大幅に脱線することこそ、このブログの本質である。しかし話を戻そう。
ツンデレと、そして誤解された変態。
この二名は大体がところセットである。共生共存。運命共同体。カマキリとハリガネムシ……という喩えはあまり適当ではないな。とりあえずこのキャラ共は一緒にいないと互いの良さが発揮されないことが多いのである。そしてこれは特にツンデレに対して言える。
がしかし、俗に言う〝凸凹コンビ〟。こやつらは二人三脚を宿命付けられながら、せーのっ、で互いの右脚を動かしてしまうという習性を持つ、絶望的な相性の悪さで有名なのである。リッグスとマータフも凸凹コンビだけど、土壇場で抜群のコンビネーションを発揮するからまだマシだよね。
リーサル・ウェポンのレールに乗りかけている。話を戻そう。二人三脚だ。
アンタ何右脚出してんのよバカなの死ぬのどこさわってんのよこの変態クソ虫ツンデレさんはおそらくこのように罵ってくるだろうと、これは確信に近い予測である。
分かった分かったオレが悪かったよほら肩をつかんで立て遅れを取り戻すぞ、と主人公は散々に罵られたとしても前向きに考えるはずである。なんとも人が好い。
そう。主人公が持つこの〝お人好しさ〟こそ、相対する両者を結ぶミッシングリンクなのだ。

実際、身近にツンデレさんがいたと仮定してみる。これは非常に厄介であると言わざるを得ない。彼女は喩えるなら歩く核弾頭。取り扱いは外科手術の慎重さでどうぞ。出来るならばこの橋渡るべからず。よっしゃ、そんじゃ真ん中渡ったれ。ハッハこやつめ言いよる。いやそうじゃなくて。
何と言うか、ツンデレさんとは考えるだに面倒くさいことこの上ない相手であるのは間違いない。「彼女、素直じゃないだけなのよ」。オーケイもう分かったそれ以上言うな。と思ってしまうのは私の性格が捻じ曲がっているせいですが。
まあでも身近に〝ましろ色シンフォニーの紗凪〟的な人物がいると想像した場合、やはり私は積極的な接触を避けるだろうと思う。触らぬ神になんとやらだ。まったく七面倒臭いことになる。いやきっと八くらいは面倒臭い。
あの手の手合いを相手に出来る人物とは、きっと仏レベルのお人好しなのだろうと勝手に想像してみる。何を言われようと柳に風。暖簾に腕押し。つまり柔よく剛を制す。左を制す者は世界を制すものだと相場で決まっているものだし、それはお人好しとツンデレの関係にも言えるのではないか?つまりお人好しを制す者はツンデレを制す。
お人好しの中のお人好し。King of お人好し。そんな心の持ち主がツンデレを手なずける。つまり〝主人公〟と呼ばれる存在になり得るのである。

外見は没個性的であり、すべてにおいて平均的に見える主人公。
しかしその精神は、変態じゃないのに変態と呼ばれ続けてもなお折れぬしなやかさと、荒ぶるツンデレ神を包み込むほどの心の広さを併せ持つ、ハイスペックメンタルの持ち主なのだ。
常人に見え、常人に非ず。
頭が高い。ツンデレ共は分を弁えよ。

なので、見た目は一般人でのらりくらりとしているように見えるのにツンデレやその他諸々の女の子に囲まれる学園生活を送っているというハーレム主人公が嫌いだ、という方は認識を改めてみてはいかがか?


【まとめ】
・東大を出てから「東大なんて……」と言おう。
・素直になろう。


ところで最近は〝最弱言われてるけど実は強かった主人公〟という設定も
〈command+option+esc〉

なぜ休日に雨は降る

たとえその確率が30%だとしても雨に降られてしまうのが、つまりその、人生なのだ。

週に一日だけやって来る貴重な休日。週に一日だけやって来るということはつまり月に約四日ほどやって来るということだ。ちなみに年で考えるとだな……

ということで、私にとって休日とはとても貴重な存在なのである。単純計算で通年アニメと同じ日数しか存在しないという、とても待ち遠しい存在なのだ。そしてそのアニメは予約録画出来ないと来た。絶対に見逃せない。

もうお判りだとは思うし、あくまで補足として一応念のために言っておくが、連休などは存在しない。連休連休連キュウ……レン……キュウ。私の中で、その言葉はハリボテである。意味などとうに失われ、向こう側がぼんやりと透けて見える空っぽの容れ物。あるいは口裂け女人面犬。これらの都市伝説は、往々にして知人の知人の兄や姉の目撃例でのみ語られ得るという謂わばドーナッツ状の存在であり虚であるということでその一致を見ている。
相違点を強いて挙げるとするならば、目下都市伝説の体験者であるとされる知人の知人の兄や姉という存在が、ただより近しい知人という存在にすり替わっただけの話だ。
私にとって連休とはそういう類のものだ。

まあ今日がつまり一週間ぶりの休日だったわけですが、残念なことに雨に降られた。何か先日のブログでこんな話したような気がするな。
それは、ぽつ……ぽつ……というふうに、非常に弱い雨ではあったのだが、しかしそれは大した問題ではない。問題なのは

玄関を出るまではバッチリ晴れていたのに!

という点にこそある。

「私何か悪いことでもしましたか?」
と、空に聞いてみたくなるこの現象。自身の間の悪さを再確認するためだけに存在する実に陰湿で陰険なこの現象。何なんでしょう?割とマジに。俺が何したって言うんだよ。

ここで京極夏彦氏が言うところの〝嫌な予感は嫌な現実を誘引する〟という考えに則ってみる。

曇りという予報だったのに今は晴れているな。たとえ曇ったとしても、何なら夜は晴れるとの予報だったし、まあ降りはしないだろう。晴れている空を見たら普通そう思うじゃん?だけど降られた。
私はこの時別段〝嫌な予感〟というものを感じてはいなかったと記憶している。だけど降られた。降りそうになかったのにもかかわらず。降水確率は30%だったのにもかかわらず。
なぜか?

こう考えてみる。
ひょっとすると、まったくの同時刻、私が見上げた空と同じ空を見上げ、私と同じく天気のことを思った何者かがいたのかも知れない。
そしてひょっとすると、その何者かは、〝嫌な予感〟に取り憑かれてしまったのかも知れない。雨降ったらやだなあ、と。そしてその彼もしくは彼女は、傘を持たずに家を出てしまったのだ、と。

だとすれば、ある程度納得がいく。今日の〝30%でも降ってしまう雨〟という擬似パラドックス的天候にも。きっと何者かが抱いた〝嫌な予感〟が雨雲を呼び寄せたのに違いない。

嫌な予感は嫌な現実を引き寄せ、嫌な現実は周囲に感染する。
そのように人々の思考はどこか深い場所で相互に繋がっていて、見ず知らずの彼や彼女の人生に知らず識らずの裡に干渉しているのかも知れない。

降水確率30%でも雨に降られてしまうということ。
それは彼らや彼女らの、そして私の人生。

現時刻0時30分。
外は雨。
予報は当てにならない。

設立理念にかえて

これは言うまでもなく比喩であるが、昔のとある偉い人は「人間は考える葦である」と言った。誰もが一度は聞いたり読んだりしたことがあるだろうと思われるあまりにも有名な比喩。そしてあまりにも使い古されてしまった、手垢まみれの比喩。
ところで知っていましたか?葦の内部構造はまったくの空洞であり、つまりスカスカなのだということを。たった一本ではあまりに無力な植物ですが、しかし束ねれば紐にもなるし、もっといっぱい束ねれば船にもなる。なんと人間的な植物なのだろう。そうは思わんですか?えっ、そういう意味じゃない?

もう一度言おう。人間は考える葦なのだ。だから私は今日も考える。昨日も考えたのだし、そして明日もきっと。

何について?

 例えば仕事について。例えば人間関係について。例えば今日の夕食について。例えば読んでいる本について。例えば降水確率40%の場合に傘を持って出掛けるべきかについて。例えばどのレジが一番早く流れているかについて。例えば散髪のベストタイミングについて。
そして、例えば人生の奇妙さについて。

空を見上げて、「多少雲がある」「でも晴れの範疇だろう」「風が若干強いな」「ぬるい風だ」「雨の心配はないかな」「あ飛行機だ」「何キロ出てんだろ?」と、ほとんど無意識的に〝思う〟が、一方で天気予報をチェックしてみるとお天気アナが降水確率は40%でしょうと愛嬌たっぷりでお伝えしている。そこで私は「ここは万が一に備えて傘を持って出掛けるべきだろうか?」と意識的に〝考える〟。40%。さて、この数字、どう見る?
傘を置いていくことにした【私その1】の世界線では40%の確率を見くびった罰として雨に降られてしまい、反して傘を持っていった【私その2】の世界線では天気に恵まれ傘の出番は終始なかったのであるから、人生とは何と奇妙なものか。いやそういうことを言いたいわけじゃなくて。折りたたみ傘があればなあ。でも小さいからあんまり意味ないもんなあ。せめて65cmは欲しい。いやだからそうじゃなくて。

つまりだ。〝考える〟という行為はやはり〝思う〟という行為の凝縮と抽出の果てに滴り落ちる一雫なのだろう。と、誰と分かち合うでもなくひとりでそう了解したわけなのだ。

前置きが長いな。そろそろ本題に入れ。みんなから〝頃合〟と呼ばれている奴がそう野次を飛ばし始めている。ではリクエストにお応えして、ここでこういう一文なんていかがか?

「一行の陰に死んだ九十九行がある」

これこそが本ブログの基本理念である。

つまり……どゆこと?
つまり、私が〝思う〟ことをただひたすらツラツラと、そしてダラダラと記していく、とゆこと。
一行を生み出すために犠牲となった九十九行に光あれ、ということだ。ここでの一行とはもちろん意識的に〝考える〟ことであり、九十九行とはお察しの通り無意識的に〝思う〟ことである。〝考える〟ということは数多の〝思う〟で出来ているのだ。
「我思うゆえに我あり」とはデカルトがたどり着いたという単純化の極北。その〝思う〟という意識の表層にヒラリと煌めく一瞬のほうき星をふん捕まえて舞台へ引きずり出す、という作業。

とまあこんな感じで、三沢vs川田戦的に言うところの投げっぱなしジャーマン三連発でこのブログは続いていきます。グレコローマンスタイルだとカレリンズ・リフト。当ブログは頚椎を痛める恐れがあります。しかしグレコローマンって響き、外はカリッと中身はトロ〜りって感じじゃないですか?まあそんなことはどうでもいいんだ。
いや、しかし、〝思う〟ことを記すということはそういうことか。あー頸痛え。

とにもかくにも。
ここは私の、私による、私のためのブログ。
そんな猥雑な彼岸を、これから少しずつ描いていくとしよう。