なぜ休日に雨は降る

たとえその確率が30%だとしても雨に降られてしまうのが、つまりその、人生なのだ。

週に一日だけやって来る貴重な休日。週に一日だけやって来るということはつまり月に約四日ほどやって来るということだ。ちなみに年で考えるとだな……

ということで、私にとって休日とはとても貴重な存在なのである。単純計算で通年アニメと同じ日数しか存在しないという、とても待ち遠しい存在なのだ。そしてそのアニメは予約録画出来ないと来た。絶対に見逃せない。

もうお判りだとは思うし、あくまで補足として一応念のために言っておくが、連休などは存在しない。連休連休連キュウ……レン……キュウ。私の中で、その言葉はハリボテである。意味などとうに失われ、向こう側がぼんやりと透けて見える空っぽの容れ物。あるいは口裂け女人面犬。これらの都市伝説は、往々にして知人の知人の兄や姉の目撃例でのみ語られ得るという謂わばドーナッツ状の存在であり虚であるということでその一致を見ている。
相違点を強いて挙げるとするならば、目下都市伝説の体験者であるとされる知人の知人の兄や姉という存在が、ただより近しい知人という存在にすり替わっただけの話だ。
私にとって連休とはそういう類のものだ。

まあ今日がつまり一週間ぶりの休日だったわけですが、残念なことに雨に降られた。何か先日のブログでこんな話したような気がするな。
それは、ぽつ……ぽつ……というふうに、非常に弱い雨ではあったのだが、しかしそれは大した問題ではない。問題なのは

玄関を出るまではバッチリ晴れていたのに!

という点にこそある。

「私何か悪いことでもしましたか?」
と、空に聞いてみたくなるこの現象。自身の間の悪さを再確認するためだけに存在する実に陰湿で陰険なこの現象。何なんでしょう?割とマジに。俺が何したって言うんだよ。

ここで京極夏彦氏が言うところの〝嫌な予感は嫌な現実を誘引する〟という考えに則ってみる。

曇りという予報だったのに今は晴れているな。たとえ曇ったとしても、何なら夜は晴れるとの予報だったし、まあ降りはしないだろう。晴れている空を見たら普通そう思うじゃん?だけど降られた。
私はこの時別段〝嫌な予感〟というものを感じてはいなかったと記憶している。だけど降られた。降りそうになかったのにもかかわらず。降水確率は30%だったのにもかかわらず。
なぜか?

こう考えてみる。
ひょっとすると、まったくの同時刻、私が見上げた空と同じ空を見上げ、私と同じく天気のことを思った何者かがいたのかも知れない。
そしてひょっとすると、その何者かは、〝嫌な予感〟に取り憑かれてしまったのかも知れない。雨降ったらやだなあ、と。そしてその彼もしくは彼女は、傘を持たずに家を出てしまったのだ、と。

だとすれば、ある程度納得がいく。今日の〝30%でも降ってしまう雨〟という擬似パラドックス的天候にも。きっと何者かが抱いた〝嫌な予感〟が雨雲を呼び寄せたのに違いない。

嫌な予感は嫌な現実を引き寄せ、嫌な現実は周囲に感染する。
そのように人々の思考はどこか深い場所で相互に繋がっていて、見ず知らずの彼や彼女の人生に知らず識らずの裡に干渉しているのかも知れない。

降水確率30%でも雨に降られてしまうということ。
それは彼らや彼女らの、そして私の人生。

現時刻0時30分。
外は雨。
予報は当てにならない。

設立理念にかえて

これは言うまでもなく比喩であるが、昔のとある偉い人は「人間は考える葦である」と言った。誰もが一度は聞いたり読んだりしたことがあるだろうと思われるあまりにも有名な比喩。そしてあまりにも使い古されてしまった、手垢まみれの比喩。
ところで知っていましたか?葦の内部構造はまったくの空洞であり、つまりスカスカなのだということを。たった一本ではあまりに無力な植物ですが、しかし束ねれば紐にもなるし、もっといっぱい束ねれば船にもなる。なんと人間的な植物なのだろう。そうは思わんですか?えっ、そういう意味じゃない?

もう一度言おう。人間は考える葦なのだ。だから私は今日も考える。昨日も考えたのだし、そして明日もきっと。

何について?

 例えば仕事について。例えば人間関係について。例えば今日の夕食について。例えば読んでいる本について。例えば降水確率40%の場合に傘を持って出掛けるべきかについて。例えばどのレジが一番早く流れているかについて。例えば散髪のベストタイミングについて。
そして、例えば人生の奇妙さについて。

空を見上げて、「多少雲がある」「でも晴れの範疇だろう」「風が若干強いな」「ぬるい風だ」「雨の心配はないかな」「あ飛行機だ」「何キロ出てんだろ?」と、ほとんど無意識的に〝思う〟が、一方で天気予報をチェックしてみるとお天気アナが降水確率は40%でしょうと愛嬌たっぷりでお伝えしている。そこで私は「ここは万が一に備えて傘を持って出掛けるべきだろうか?」と意識的に〝考える〟。40%。さて、この数字、どう見る?
傘を置いていくことにした【私その1】の世界線では40%の確率を見くびった罰として雨に降られてしまい、反して傘を持っていった【私その2】の世界線では天気に恵まれ傘の出番は終始なかったのであるから、人生とは何と奇妙なものか。いやそういうことを言いたいわけじゃなくて。折りたたみ傘があればなあ。でも小さいからあんまり意味ないもんなあ。せめて65cmは欲しい。いやだからそうじゃなくて。

つまりだ。〝考える〟という行為はやはり〝思う〟という行為の凝縮と抽出の果てに滴り落ちる一雫なのだろう。と、誰と分かち合うでもなくひとりでそう了解したわけなのだ。

前置きが長いな。そろそろ本題に入れ。みんなから〝頃合〟と呼ばれている奴がそう野次を飛ばし始めている。ではリクエストにお応えして、ここでこういう一文なんていかがか?

「一行の陰に死んだ九十九行がある」

これこそが本ブログの基本理念である。

つまり……どゆこと?
つまり、私が〝思う〟ことをただひたすらツラツラと、そしてダラダラと記していく、とゆこと。
一行を生み出すために犠牲となった九十九行に光あれ、ということだ。ここでの一行とはもちろん意識的に〝考える〟ことであり、九十九行とはお察しの通り無意識的に〝思う〟ことである。〝考える〟ということは数多の〝思う〟で出来ているのだ。
「我思うゆえに我あり」とはデカルトがたどり着いたという単純化の極北。その〝思う〟という意識の表層にヒラリと煌めく一瞬のほうき星をふん捕まえて舞台へ引きずり出す、という作業。

とまあこんな感じで、三沢vs川田戦的に言うところの投げっぱなしジャーマン三連発でこのブログは続いていきます。グレコローマンスタイルだとカレリンズ・リフト。当ブログは頚椎を痛める恐れがあります。しかしグレコローマンって響き、外はカリッと中身はトロ〜りって感じじゃないですか?まあそんなことはどうでもいいんだ。
いや、しかし、〝思う〟ことを記すということはそういうことか。あー頸痛え。

とにもかくにも。
ここは私の、私による、私のためのブログ。
そんな猥雑な彼岸を、これから少しずつ描いていくとしよう。