『異世界の猫』

 まるで音もなく這い回るなめくじのような粘性の沈黙に耐えられなくなったおれは、気の利いた話題をこの役立たずの喉からひねり出そうとした。今日の天気だとか、最近の調子だとか、そういうありきたりなやつではなく、気の利いた話題をだ。しかし、無駄だった。なにも——まったくなにも出てきそうにない。おれは困っていた。

「十三だ」突然葛木は言った。「十三」
 おれは横を歩く葛木の顔をまじまじと見た。するとそのタイミングで前方に吐かれた紫煙が葛木の顔を包みこみ、そしてすぐに後方へと消える——再び右手が口に添えられる。ちりちりと、葛木の口元で煙草が灰に崩れていく。
「な……」急な発声に追いつかなかったおれの喉は、無様にも言葉の途中でつっかえてしまった。「……んだ? 十三って?」
「数だ」
 葛木は前を向いたまま、当たり前のことを当たり前に言ってのけた。
「知ってるよ」
「野良猫の数だ」
 葛木とは商店街の書店で出会った。いや、出遭った。偶然、何の前触れもなく、唐突に、まるで事故のように、おれは彼と出遭った。葛木から声をかけてきた。よう川上じゃないか。
「野良猫の……数?」
「そう」
 おれと葛木は同級生だ。地元もいっしょで、つまり小中は同じ学校に通っていた。同じクラスになったことはない。高校は別だ。特別親しい間柄ではなく、かと言って仲が悪いわけでもない。しかし話したことはあまりない。というかほとんどない。正直〈葛木〉という苗字を思い出すにも時間がかかった。名前は憶えていない。つまりあくまで知人であって、友人とは呼べない。そういう微妙な関係性で、だからおれは困っている。葛木はどう思っているのだろう?
「さっき本屋で川上とばったり出会ってから今までに見かけた野良猫の数」
 葛木はまるで唱えなれた呪文を口にするかのようにスラスラと明瞭にそう言った。
 おれは歩いている自分のつま先を見た。スニーカーの右足だけが非道く汚れるのはいったいなぜなのだろう。いつも右足だけ——。
「川上は数えなかったのか?」
「え? ああ、うん」
「何冊買った?」
「え?」
「本」
 全部海外SFだった。
「ああ、えっと……五冊だよ」
「十五だ」
 葛木は前方を指差しながらそう言った。野良猫がいた。茶虎と、白黒のぶちと、黒猫。三匹の猫。
「三匹いるが」
「あの茶色いやつはさっき見た。カウント済みだ。三引く一は二、十三足す二は十五。簡単な算数だよ川上」
 お前はなにを言っているのだ、とおれは心の底で強く思った。そういう意味の言葉——お前は意味不明だ——が危うく喉から出そうになったが、幸いにも飲みこむことができた。葛木は特別親しくもない知り合いであるから、それはなおのこと幸いだった。そしておれはこうも思った。おれの喉は、どうやら沈黙の方面に優れた造りらしい、と。しかし葛木を無視するわけにもいかないので、おれの喉は代わりに次の言葉を用意した。「ふむ」
「あの茶色いやつはおそらく」葛木は、そんなおれの気持ちをつゆも知らず、お構いなしに続ける。「連絡係だろう」
 おれと葛木は三匹の猫の横を通り過ぎる。葛木から一方的に連絡係だとにらまれた茶虎は、眠たげなあくびをかみ殺す素ぶりすら見せない。野良ではあるが野生ではない、とおれは思った。しかし顎の上下から伸びる牙がやけに生々しく見えたのも事実で、その生々しい牙を見たおれは、はたして猫の牙も犬歯と呼ぶべきなのだろうか、と割とどうでもいいことを思った。
「猫の牙は、猫であっても犬歯と呼ぶべきなのかな」
「お前はなにを言ってるんだ?」
 おれは急に、まるでなにか別の生き物と意思の疎通を試みているのではないかというような、そういう手探りの不安にかられた。あるいは、おれの知っている日本語と葛木の知っている日本語とではどこかに決定的な齟齬があるのではないか、という根本的な疑い。ひょっとすると葛木はおれが林檎と呼ぶものを蜜柑と呼ぶのでは? そんな莫迦な話はないだろうが——おれは、葛木から揶揄われているように感じた。
「はあ」
 ため息が出た。それはほとんど触れそうなほどに重く、足元に落ちたため息は前に出した右足に当たって砕けた。そんな気がした。右足だけが汚れる理由——。
「ため息を吐くと不幸になるっていうだろ。おれは逆だと思うんだがな」
 自分のことを不幸だと思ってるやつがため息を吐くんだよ、と葛木は続けた。その口調はおそろしく淡々としたものとしておれの耳に届き、そこにはまるで他人から言わされているような響きさえ含まれていた。断定していながら、一方で信じていない、そういうふうな口調。おれは、ひょっとすると葛木はよくため息を吐くたちなのではないか、というまったく根拠のない憶測を巡らせた。しかしその憶測は、真実である可能性をわずかに含んでいる憶測なのかも知れなかったが、それを確かめる術をおれは持ち得なかった。おれの喉は役立たずなのだ。
「猫はあくびはするが、ため息は吐かない」葛木は前を向いたままだ。「だから猫のあくびを見るのは気持ちがいい」
 くやしいことにその意見にはおれも賛成だった。そして同時に安堵もした。ようやく葛木とまともに会話らしい会話ができそうな気がしたからだ。共通の感覚は共通の話題をもたらす。おれはなにかを言おうとしたが、しかし葛木がそれを遮った。
「ずいぶん前の話だが、道端であくびをしている猫を見かけたんだ。そしてなんとなくその口の中に人差し指を入れてみたことがあった。そのときおれはこう思った。『こういうとき猫はどうするのだろう? もしかするとあくびの途中で指の存在に気づいて口を開けたままにしてくれるかも知れないぞ』とな。猫はどうしたと思う?」
 おれはなにを言おうとしたのだろう?
「そのまま口を閉じたよ。まあ、当たり前なんだがな。結局おれは指をガブリとやられた。痛かった」
 猫はおれの指が見えてなかったんだ。そう続けた葛木の声は妙に嬉しげで、しかしおれがただそう感じただけなのかも知れなかった。なぜならおれは葛木のことをよく知らない。だからおれはなんと言っていいのか分からなかった。いや、違う、なにを言おうとしていたのかが分からなかった。おれの喉は気の利いた話題や科白を吐くようにはできていない。沈黙とため息だけが取り柄。共通の感覚は必ずしも共通の話題をもたらすとは限らないようだ。葛木の顔はその口から吐き出した紫煙で煙っている。ここからでは、よく見えない。
「お前、今日何本吸った?」
「数えてないな」
 だが野良猫は数える——
 そう思った瞬間、葛木はおれを見た。さっきまで葛木の顔を覆っていた紫煙は後方へと霧散していた。結果的におれは葛木の眼をまともに覗きこんでしまった。その眼は大きく見開かれていて、葛木はなにかに驚いたのだと悟った。おれは葛木が驚いたことに驚き、なぜかうろたえた。
 葛木はもうおれを見ていなかった。前を向いていた。
「今も数えている」
 葛木はそう言った。だろうな。
「猫は好きなんだ」そう続けた葛木の口元では紫煙が踊っていた。「だから、数えてる」
 おれは数えなかった。
 おれたちは異なる世界で生きている。同じ時間、同じ場所にいながら。
 今ここにおれたちは同時に存在するが、おれたちの世界は重ならない。
「七百六十九.二三だ」突然葛木は言った。「七百六十九.二三」
 世界は重ならない。