『バッグの中で』

 おひとり様ですか、という店員の問いかけに、というよりはむしろ確認に、はい、と打てば響くように、しかしかろうじて聞き取ることができる声量で答えてしまったDだったから、やはりマニュアル通り、カウンター席に案内された。

 カウンターならばどこでも良いということだったので、入口からいちばん遠い席に座った。そういう男だった。
 椅子の下には荷物を入れるための籠が置いてある。
 Dはナイロン製のバックパックを背負っており、それを籠の中に入れたい。
 別に椅子の背もたれに引っかけても良いのだが、せっかく籠があるのだからとDはバックパックを籠の中に入れたいというまったくどうでも良い欲求のつむじを心中の手のひらでよしよしと撫でさする。椅子に座った状態で前屈し股ぐらに右腕を突っ込んで籠を引き抜く。と、予期せぬ手応え。
 籠の中には知らないバッグが入っていた。
 思わぬ先客にDは自分でも信じられないほどの狼狽えを見せた。
 事の大小はあれど、それは例えば、ダムの壁面に走る亀裂を見つけてしまったときに立ち上がる責任感によって引き起こされるものと同根の狼狽えだった。そしてその問題を直接に解決出来ない不甲斐ない自分をDは認めた。次にその不甲斐ない自分をDは責めた。そうすることで謂れのない罪悪感が生み出され、そしてDはその罪悪感を無意識的に育み、次第に幹は太り枝葉は拡がってゆく。充分に育った罪悪感の奇妙な枝に首縄を垂らし、踏み台に足を掛け、ひと息に蹴り倒す。取るに足らない存在、ちっぽけな自分、己のうちに棲む認めがたい存在を己で断罪し極刑に処すことで、人は日常的に発狂を免れる。これはほんの一例であるという断りを入れておくが、ときに死は慰めという形をとるものだ。Dは役立たずの自分を責め、果たすことの出来ない責任を彼——しかしそれは紛れもない自分自身——に転嫁し、その責任を小さな自死という方法によって葬ることで自らを断罪し、大部分の自分たちを慰めた。不自然で不必要な自死——自死はいつだって不自然で不必要だ。しかし慰めにはなる。だがDは気づいていなかった。不自然に、そして不必要に葬ったのが実は等身大の自分だったということに。なぜか? 当事者の手もとには死よりも先に慰めが届く。死は常に最後にある未来なのだ。
 局所的自死後、生きているほうのDは数秒の石化から回復した。とりあえず自分のバックパックを背もたれに引っかけてお冷を待つ。お冷が運ばれてきたときに忘れ去られたバッグの存在を店員に告げようと思いながらお冷を待つ。籠の中に持ち主不明のバッグが安置されているという状態でお冷を待つ。待ち続けるDは思う。据わりが悪い。文字通り。
 しかし待てどもお冷は運ばれてこない。
 それもそのはず、店内には〈お冷はセルフサービスです〉という張り紙がされていた。ノーサービスの誤用。しかしDはその張り紙に気づかずお冷の到着を待ち続ける。さながらセリヌンティウスの決意。しかしセリヌンティウスはその作中で一度だけ……。
 メニュー表を取った。開く。定食の画像、画像、画像がおびただしい。
 低解像度のしょうが焼き定食を認めた。Dは過去の経験と想像力を駆使してしょうが焼き定食のあるべき姿を補完した。800円。決めた。
 Dは渇き、べたりと接着してしまった喉を無理矢理剥がすようにして発声したものだから、それはほとんど言葉になっていなかった。どちらかというと軽自動車のタイヤが小さな段差を乗り越えるときの音に似ていた。Dはおそらく「すみません」と言いたかったに違いない。状況的にそう推測できた。実際にそのタイヤ音のごとき声を偶然に聞き拾った店員のひとりがそう推測した。推測したのだが、それはあくまで推測であって、思い返してみると、それはだんだんと言葉ではないような気がしてきた。そう思えば思うほど、そうに違いない、空耳の類いだろう、という心持ちになってしまったものだから、その店員はDの言葉になり損ねた言葉を雑音として処理してしまった。Dは契機を失した。
 ひとりぼっちのDは遠慮がちに店内を見回した。
 入店時は空席が目立つ店内だったが、気づくと満席に近かった。テーブル席に空きはなく、カウンターの数席を残すのみで、それはDの隣と、入口に最も近い席。
 店員が忙しそうに店内をぐるぐると駆け回っている。
 忙しそうだな、もうちょっと待つか、とDは思った。そういう男だった。
 どうも手持ち無沙汰になってしまったので、椅子の下に放置している例のバッグが気になってしまった。それはDの下で再び不気味な存在感を放ちはじめた。ぐらぐらと、まるでマグマのごとく、湧き上がる窃視衝動。Dは必死にそれを押さえ込むべく、努力をしていた。
 バッグの中身が気になるのだ。
 そのバッグは婦人物のデザインだった。よくテレビの通販番組で叩き売りされている、必要以上の増改築を繰り返した醜怪な建築物のような、贅肉的逸品。ひとたび美術館に置けば、きっと現代アートとして評価されることだろう。これはウォーホール的アプローチがどうのこうの……。
 いったい何が入っているのだろう?
 手持ち無沙汰な状況がその欲求の業火にせっせと薪をくべる。しまいには油を注ぎ、新鮮な酸素さえ供給する始末。まるで「覗け」とでも言わんばかりの状況。隣には誰もいないぞ、誰もお前なんぞ見ちゃいない。さあ、覗け。覗け。覗け。
 覗いてしまえ!
 Dはひたすらにメニュー表を凝視する。凝視し、凝視し、視ていない。
 何も視えていない。
 心ここに在らず、だった。ではどこに?
 無論、あのバッグの中だった。
 Dはバッグの暗闇を手探りでさまよい歩いていると自覚する。何も視えていない。あまりに何も視えていないので、ここがバッグの中なのかさえ分からない。おれはどこにいるのだろう? どこに〈在る〉のだろう?
 男はとたんに恐慌をきたし、叫びたくなる。誰かおれを見つけてくれ、と。しかし喉が渇いてうまく叫べない。店員さん、お冷を、早く、うまく、叫べ、な、いんです。
 そんな状況にあってなお男は、まあ、でも、などと思ったりするのだった。おれは別に困ってはいないじゃないか。今までと何も変わりはしないじゃないか。そう、何も。何もかも。
 そしておそらくはこれからも。
 男はひとり思うのだった。
 カウンター席の一番奥の座席の下にある籠の中のバッグの中のどこかで。誰にも知られず、知られたいとも思わず、決してそれが好きだったり面白かったりするわけではないのだが、それが一番手っ取り早くて一番楽だからという理由で。
 男は、だから、ひとり思うのだった。
 男は、実は、今まで一度も叫んだことがなかった。だから、ひとり思うのだった。それしか方法を知らなかった。叫ばないでも済む環境、それで許される環境を無意識的に選択し、そこに潜り溶けることで生きてきた。男はきっとバッグの中の四隅のいずれかにいた。目を開けても閉じても何も変わらず、ただ壁に背を預けながら、ひとり思うのだった。その割には自分を自分で死に追いやるほどに憎み、そして好いているということには思い至っていない。何も視えていない。
 そういう男だった。

『ゼノンの女』

 マグカップの中身はきっと冷めている。
 街並みを一望できる窓際の席。そのいちばん右端に座ってノートのキーボードを叩いている女の後ろ姿を凝視しながらおれはそう思う。女は——正式な名称は知らないが——やたらと襞の多いゆったりとした黒い上着を着ていて、黒のスリムパンツに黒のヒールを履いている。そのヒールの底だけが赤い。本当に、まるで嘘のように赤い。
 女はキーボードを叩いている。カタカタカタ、カタカタカタ。その動作は絶え間なく、女の席の左端で存在感をなくしているマグカップの中身はきっと冷めているのだろうとおれは思う。中身はおれのものと同じでコーヒーだろう。おれはすでに底が透けて見えているマグカップを左手に持ち、そしてそれを口まで運んで用心深く傾ける。とうに冷めてしまったコーヒーがおれの特に乾いてもいない唇を苦く湿らせる。陶器製のマグカップは、まるで鋭い犬歯のように白く光っている。底に溜まる液体は掴めそうなほどに黒い。
 おれはマグカップを目の前の、まるで流木を平らに均したような木製のテーブルの上に置き、本の続きを読み始める。おれの頭はすでに黒衣の女と窓外に広がる街並みとを等価なものとして処理している。西陽を、マグカップがにべもなく跳ね返している。ページの余白が網膜に焼きついて離れようとしない。黒い文字。太陽黒点
 あらすじはこうだ。
 完全犯罪を目論んでいるひとりの男がいる。そして男には資産家の祖父がいる。いや、いた。男は物語の冒頭で祖父を殺害するのだ。事故に見せかけて。しかしとある女に犯行の決定的な証拠をつかまれてしまう。男は女を始末しよう目論むのだが……よくある話だ。そしておれはよくある話が好きだ。
 おれは読書に集中する。
 この小説の語り手は男だ。祖父殺しの男。つまり一人称視点で進行する物語だが、この男が信用できる語り手だとは限らない。金欲しさに祖父を殺すほどの男だ。安易に信用してはいけないだろう。これはおれの持論だが、一人称で進行する物語は決して最後まで信用してはいけない。しかし祖父を殺したところで孫である男にいくら転がりこむのか、たかが知れているとおれは思うのだが、しかし男は自分の父親を殺す予定なのかも知れないとおれは予想する。例えば祖父と同様、事故に見せかけて。そうすれば遺産は男のものになる可能性が高まる。だが男はその前に女を殺さなければならない。殺人を隠蔽するための殺人を犯さなければならない。事実、男はそうしようとしている。つまり男は、ほとんど入れ子構造の屍を積み重ねなければならないということだ。毒を食らわば皿まで。皿を食ったあとは箸も食わなくてはならない。その次は自分の手を……。
 おれはページをめくる。
〈いたおれだが、別に気分が悪かったわけじゃない。〉と続いていて、文がページをまたいでいる。読みながら、また黒衣の女の姿が目に入る。おれはそのような位置の席に座っている。そのような位置とは、つまり黒衣の女が視界に——あるいはおれの意識に——収まる位置ということだ。鼻をすする音が背後から聴こえてくる。他の客は視界の外にいるようだ、とおれは思う。気が乱される。なぜかは知らない。落ち着かない。おれは落ち着かないままに文字を追う。また文がページをまたいだ。女はキーボードを叩く。残りわずかのコーヒー。鼻をすする音。またページをめくる——。
 おれは再びマグカップに手を伸ばす。
 今おれがいるここは書店だがカフェでもある。本を買うついでにコーヒーが飲める。あるいはコーヒーを飲むついでに本が買える。もっと言うなら本を買うだけでもいいし、もちろんコーヒーを飲むだけでも構わない。そういう空間で、店だ。商売っ気がなく、おれはそこが気に入っている。静かなところもいい。本好きは本好きに対して常に紳士的に振る舞うものだ。そしてこの店には本好きしかいない。なのでおれは休日はここで本を読むことにしている。
 店はそれが購入済みの本であれば飲食をしながら読んでもよいという方針を採っている。そして飲食をしない場合は席に座れない。もちろん本は持ち込み可だ。しかし飲み物や食べ物は認められない。それらはレジで注文する必要がある。店内で読書をしたいのなら最低一品は注文してくださいというシステムである。おれの場合はコーヒー一杯がその座席料にあたる。四八六円。
 読書中における会話と騒音の違いについて。
 以前、おれはよく喫茶店巡りをしていた。本を読むための静かで落ち着いた空間を探していた。そこでおれの頭は喫茶店という単語を安直にはじき出したというわけだ。喫茶店は喫茶店でもカフェではなく、いわゆる純喫茶と呼ばれる類いの店を好んで巡っていた。おれはどこにどういう純喫茶があるかを調べて回っていた。そのころの名残か、今でも通りを歩いていて見覚えのない喫茶店を見つけてしまうと思わず立ち寄ってしまう。しかし以前ほどの熱意は、今はもうない。腰を据えて本を読む場所ではないと感じたからだ。純喫茶はああ見えてうるさい。結論を言うと会話が会話として明晰なのだ。例えば流行りのカフェなどは客入りも頻繁で賑わっている場合が多い。そういう人の多い場所は自然と会話の総量が多くなる。すると会話が会話に重なり、それらはやがて騒音と化す。その膨大な言語情報の中から特定の会話をリアルタイムで抽出しようとする場合は、その特定の会話に特別に意識を向ける必要がある。そうしない限り会話群——たった今思いついた呼称だ——は個人にとって騒音でしかなく意味をなさない。しかし純喫茶と呼ばれる店は、大抵は小規模なものであり、満席になったとしてもやはり人混みにはほど遠い場合がほとんどだ。そういう小規模な空間では会話は騒音にはなりきれない。そしてたちの悪いことに、その会話の一部がふいに耳に——意識に——飛び込んでくるのだ、聞こうともしていないのに。そしてそのいまいましい会話が頭の中をまるですばしっこいねずみのようにちょろちょろと駆け回る。そうなってしまうともう駄目で、おれは本に集中できなくなってしまう。耳障りなねずみは頭の中の椅子に居座ってしまう。そういうとき、おれは耳にまぶたがあればいいのにと思う。だからおれは本当に静かなところか、もしくは非道く騒々しいところで本を読むようにしている。端的に言えば会話を会話として意識しないで済む場所だ。そしてここはおれの知っている数少ない本当に静かな場所だ。客の大抵は本を読んでいる。店員は奥でコーヒーを淹れている。つまり耳障りなねずみは滅多に現れない。しかし今日は様子が違うようだ。ねずみがいる。黒いねずみ。
 気づくと、おれはマグカップを手にしたままであった。中身は減っていない。おれは口をつけずにそれをテーブルに置く。そしてスマートフォンで時刻を確認する。十五時四分。
 おれは開いているページのノンブルを確認する。右下に〈一四七〉。左下に〈一四八〉。約一時間で百ページと少し。おれはシャツの胸ポケットから木彫りの象がついたしおり——友達からもらったタイ土産だ——を取り出し、それを本の間に挟む。すると象が本の天井から顔を覗かせる。おれはその象をつい撫でたくなる。だからおれは象を撫でる。右の親指の腹で、慈しむように。いつもの感触。その繰り返しの結果として象は飴色の光沢を放っている。おれはその象を触るとなぜか安心する。お守りみたいなものなのかも知れない。残りわずかとなったコーヒーをひと息に呷り、おれは本をバックパックの中にしまう。祖父殺しの時は止まる。おれが、止める。
 席を立ち、なんとはなしに店内を見渡す。一、二、三……五人。客はおれも含めて五人だ。トイレに何人か——何人かだと? ——いるかも知れないから断言はできないが、少なくとも今はそうだ。もっとも、数十秒後にはそれが四人になる。そういう計算で、予定だ。おれが店を出るからだ。だが、最後にあの女の顔でも拝んでおこうとおれは思う。病をばら撒き、秩序を乱す、ねずみの顔を。おれはバックパックを背負う。
 なぜだろう、女が異様に遠くに感じる。窓際までの距離はせいぜい五六歩くらいなのだが、なぜだかそれ以上の隔たりがあるように思える。それは物質的な隔たりなどではなく、なんというかこう、数値化不可能な隔たりとでもいうような、つまりおれと窓際の女の間にはそういう類いの形而上的な隔たりがあっておれの意識は束の間それを捉えたのかも知れないという感覚がする。歩いても歩いてもたどり着くことの叶わない蜃気楼。逃げ水の女。夢の中のねずみ。そこにいる女は本当にそこにいるのだろうか? 女の髪はしかしこんなにも黒いのだが。おれは気づくと手を伸ばしている。女の首は逆光にもかかわらず透けるほどに白く見える。
 女の肩口からノートのディスプレイが見える。おれはもうほとんど女の背後についているのだと気づく。知らぬ間にあの名状しがたい隔たりが詰まっていてもはやキーボードさえ見える。そして女の指も。爪が赤い。いや赤く塗られている。ぬらりとした作りものの赤。本当にまるで嘘のように。
 視線が自然と上がる。なぜか上がってしまう。青く発光するディスプレイ——誘蛾灯のイメージ。やがておれの網膜は焼かれる——蛾は死ぬ。おれはそうと知っていてそれでも眼は上昇をやめない。やめられない。
 文字。文字が見える。文字の羅列。
〈ヒール〉〈流木〉〈太陽黒点〉いくつかの単語が眼に飛び込んでくる。〈殺人〉〈コーヒー〉〈喫茶店〉。
 まるであの喫茶店の会話のように文字が飛び込んでくる。おれはその文字列から眼をそらすことができない。まぶたのない耳に飛び込むんでくるみたく文字がおれの眼をつかんで離さない。眼にはまぶたがある。〈しかし〉
〈女は文章を入力している。おれはそれを見ている。〉
〈女は文章を入力している。おれはそれを見ている。〉
〈女は文章を入力している。おれはそれを見ている。〉
 女はその多頭竜じみた赤い十指をキーボードの上でのたくらせる。皮膚呼吸のような生理現象的当然性をいかんなく発揮しているそれら十指は個別にキーを押し続け同じ文章——〈女は文章を入力している。おれはそれを見ている。〉——を三度繰り返してみせる。今の一文を含めると四度。これは一人称で進行する物語だ、とおれは思う。信用してはいけない物語。おれは何となく奈落を覗き込んだような気分になる。高重力の井戸。覗く者すべてを飲み込むうわばみ。いつからとおれは思う。いつからおれは虚構としてのおれだったのか。いつからおれは登場人物だったのか。おそらく無限に続いているであろう余白に虚な黒点が敷きつめられていく様子を今のおれは目の当たりにしている。ふとおれはおれをとりまく現実やおれ自身の実在を疑う。信じがたい世界の在り方に感電する。〈誘蛾灯〉。〈蛾は死ぬ〉。そんなことよりもおれは女の首に爪を立てたい。なぜか立てたくてたまらない。その白い陶器のような首に。爪を。犬歯のように。根元まで。深く。食い込ませたい。食い込ませたくてたまらない。なぜならおれは確かめたい。あんなもに爪が赤いのだから。だから女の血はきっと真っ赤に違いない。そうでなくてはならない。そうでなくてはそうでなくてはおれの爪も爪と爪を爪へ爪に爪は——
 気づくと爪がコーヒーに浸っている。
 やはり冷めている。

『異世界の猫』

 まるで音もなく這い回るなめくじのような粘性の沈黙に耐えられなくなったおれは、気の利いた話題をこの役立たずの喉からひねり出そうとした。今日の天気だとか、最近の調子だとか、そういうありきたりなやつではなく、気の利いた話題をだ。しかし、無駄だった。なにも——まったくなにも出てきそうにない。おれは困っていた。

「十三だ」突然葛木は言った。「十三」
 おれは横を歩く葛木の顔をまじまじと見た。するとそのタイミングで前方に吐かれた紫煙が葛木の顔を包みこみ、そしてすぐに後方へと消える——再び右手が口に添えられる。ちりちりと、葛木の口元で煙草が灰に崩れていく。
「な……」急な発声に追いつかなかったおれの喉は、無様にも言葉の途中でつっかえてしまった。「……んだ? 十三って?」
「数だ」
 葛木は前を向いたまま、当たり前のことを当たり前に言ってのけた。
「知ってるよ」
「野良猫の数だ」
 葛木とは商店街の書店で出会った。いや、出遭った。偶然、何の前触れもなく、唐突に、まるで事故のように、おれは彼と出遭った。葛木から声をかけてきた。よう川上じゃないか。
「野良猫の……数?」
「そう」
 おれと葛木は同級生だ。地元もいっしょで、つまり小中は同じ学校に通っていた。同じクラスになったことはない。高校は別だ。特別親しい間柄ではなく、かと言って仲が悪いわけでもない。しかし話したことはあまりない。というかほとんどない。正直〈葛木〉という苗字を思い出すにも時間がかかった。名前は憶えていない。つまりあくまで知人であって、友人とは呼べない。そういう微妙な関係性で、だからおれは困っている。葛木はどう思っているのだろう?
「さっき本屋で川上とばったり出会ってから今までに見かけた野良猫の数」
 葛木はまるで唱えなれた呪文を口にするかのようにスラスラと明瞭にそう言った。
 おれは歩いている自分のつま先を見た。スニーカーの右足だけが非道く汚れるのはいったいなぜなのだろう。いつも右足だけ——。
「川上は数えなかったのか?」
「え? ああ、うん」
「何冊買った?」
「え?」
「本」
 全部海外SFだった。
「ああ、えっと……五冊だよ」
「十五だ」
 葛木は前方を指差しながらそう言った。野良猫がいた。茶虎と、白黒のぶちと、黒猫。三匹の猫。
「三匹いるが」
「あの茶色いやつはさっき見た。カウント済みだ。三引く一は二、十三足す二は十五。簡単な算数だよ川上」
 お前はなにを言っているのだ、とおれは心の底で強く思った。そういう意味の言葉——お前は意味不明だ——が危うく喉から出そうになったが、幸いにも飲みこむことができた。葛木は特別親しくもない知り合いであるから、それはなおのこと幸いだった。そしておれはこうも思った。おれの喉は、どうやら沈黙の方面に優れた造りらしい、と。しかし葛木を無視するわけにもいかないので、おれの喉は代わりに次の言葉を用意した。「ふむ」
「あの茶色いやつはおそらく」葛木は、そんなおれの気持ちをつゆも知らず、お構いなしに続ける。「連絡係だろう」
 おれと葛木は三匹の猫の横を通り過ぎる。葛木から一方的に連絡係だとにらまれた茶虎は、眠たげなあくびをかみ殺す素ぶりすら見せない。野良ではあるが野生ではない、とおれは思った。しかし顎の上下から伸びる牙がやけに生々しく見えたのも事実で、その生々しい牙を見たおれは、はたして猫の牙も犬歯と呼ぶべきなのだろうか、と割とどうでもいいことを思った。
「猫の牙は、猫であっても犬歯と呼ぶべきなのかな」
「お前はなにを言ってるんだ?」
 おれは急に、まるでなにか別の生き物と意思の疎通を試みているのではないかというような、そういう手探りの不安にかられた。あるいは、おれの知っている日本語と葛木の知っている日本語とではどこかに決定的な齟齬があるのではないか、という根本的な疑い。ひょっとすると葛木はおれが林檎と呼ぶものを蜜柑と呼ぶのでは? そんな莫迦な話はないだろうが——おれは、葛木から揶揄われているように感じた。
「はあ」
 ため息が出た。それはほとんど触れそうなほどに重く、足元に落ちたため息は前に出した右足に当たって砕けた。そんな気がした。右足だけが汚れる理由——。
「ため息を吐くと不幸になるっていうだろ。おれは逆だと思うんだがな」
 自分のことを不幸だと思ってるやつがため息を吐くんだよ、と葛木は続けた。その口調はおそろしく淡々としたものとしておれの耳に届き、そこにはまるで他人から言わされているような響きさえ含まれていた。断定していながら、一方で信じていない、そういうふうな口調。おれは、ひょっとすると葛木はよくため息を吐くたちなのではないか、というまったく根拠のない憶測を巡らせた。しかしその憶測は、真実である可能性をわずかに含んでいる憶測なのかも知れなかったが、それを確かめる術をおれは持ち得なかった。おれの喉は役立たずなのだ。
「猫はあくびはするが、ため息は吐かない」葛木は前を向いたままだ。「だから猫のあくびを見るのは気持ちがいい」
 くやしいことにその意見にはおれも賛成だった。そして同時に安堵もした。ようやく葛木とまともに会話らしい会話ができそうな気がしたからだ。共通の感覚は共通の話題をもたらす。おれはなにかを言おうとしたが、しかし葛木がそれを遮った。
「ずいぶん前の話だが、道端であくびをしている猫を見かけたんだ。そしてなんとなくその口の中に人差し指を入れてみたことがあった。そのときおれはこう思った。『こういうとき猫はどうするのだろう? もしかするとあくびの途中で指の存在に気づいて口を開けたままにしてくれるかも知れないぞ』とな。猫はどうしたと思う?」
 おれはなにを言おうとしたのだろう?
「そのまま口を閉じたよ。まあ、当たり前なんだがな。結局おれは指をガブリとやられた。痛かった」
 猫はおれの指が見えてなかったんだ。そう続けた葛木の声は妙に嬉しげで、しかしおれがただそう感じただけなのかも知れなかった。なぜならおれは葛木のことをよく知らない。だからおれはなんと言っていいのか分からなかった。いや、違う、なにを言おうとしていたのかが分からなかった。おれの喉は気の利いた話題や科白を吐くようにはできていない。沈黙とため息だけが取り柄。共通の感覚は必ずしも共通の話題をもたらすとは限らないようだ。葛木の顔はその口から吐き出した紫煙で煙っている。ここからでは、よく見えない。
「お前、今日何本吸った?」
「数えてないな」
 だが野良猫は数える——
 そう思った瞬間、葛木はおれを見た。さっきまで葛木の顔を覆っていた紫煙は後方へと霧散していた。結果的におれは葛木の眼をまともに覗きこんでしまった。その眼は大きく見開かれていて、葛木はなにかに驚いたのだと悟った。おれは葛木が驚いたことに驚き、なぜかうろたえた。
 葛木はもうおれを見ていなかった。前を向いていた。
「今も数えている」
 葛木はそう言った。だろうな。
「猫は好きなんだ」そう続けた葛木の口元では紫煙が踊っていた。「だから、数えてる」
 おれは数えなかった。
 おれたちは異なる世界で生きている。同じ時間、同じ場所にいながら。
 今ここにおれたちは同時に存在するが、おれたちの世界は重ならない。
「七百六十九.二三だ」突然葛木は言った。「七百六十九.二三」
 世界は重ならない。

火サスの崖の端っこで犬か猫か選べと言われたらおれは海に飛び降りる

目には目を歯には歯をという考え方では、カワイイにはカワイイをという事態になりかねない。カワイイの欠片もなく、しかし犬猫の類いが好みである私にとっては非常に辛いものがある。限界の二文字が私の行く手を阻む。だがな、そんな世界、俺が否定してやる。

人には限界というものがある。人が人である以上、それはいつまでもどこまででも前だったり後ろだったりについて回る黒い影だ。朝ベッドの上で目を覚ますと限界が隣ですやすやと寝息を立てていた。これは……そうこれはきっと何かの間違いだ。間違いない。もう一度寝てもう一度起きたらきっとすべて元どおりだ。よし寝よう羊が一匹羊が二匹……。
限界は絶望と同義で、柵を乗り越えやって来る十三匹目は白い羊ではなく半人半獣の黒山羊だ。その禍々しきものは限界を迎えてしまったあなたに限界を超えるための取引を持ちかけてくるので、あなたは充分に用心する必要がある。あなたの心に『充分に用心するだけの判断』の在庫が残っていればの話だが……。

限界という言葉を安易に使いたくはないと思ってはいるのだが、もちろん充分に言葉を選び考えた上での発言だ。だって最近のBLOGは炎上だ何だとやたらに物騒だから、充分に用心するに越したことはない。
しかし仮に、これで充分だろうと判断したとしても、その判断が100%確実に充分であるという保証はどこにもない。それが、限界だ。つまりそれが、人の、限界なのだ。人が人である限りは。そう、人が人である限りは……な。どうだ、俺様と取引をする気はないか?お前がその気なら今すぐにでもお前の限界を引き延ばして……
ちなみに今はセール期間中だぞ。お前は運がいい。

カワイイには限界があるのだろうか?
無いような気がする。気のせいだろうか。気のせいかも知れない。しかしある程度の上限を設定しておかないと、それはそれで厄介なことになりそうな気がするので、多分あるのだろう。上限がないのであれば、それは神と競うことが出来るということになる。競えるのであるならば、少なくとも勝てる余地があるということで、つまり宗教者らを絶望せしめる〈if〉——すなわち〈神に勝利してしまった場合〉という筋書きが開通してしまう。〈神カワイイ〉を超えるカワイイとは、果たして人の認識可能な次元で捉えることが出来るカワイイなのであろうか?そもそも人が理解できる範疇にあるのだろうか?誰ひとりとして理解出来ないカワイイとは——たとえ神を負かしていたとしても——カワイイと言えるのか?数多の〈?〉が滝壺の気泡のようにぷつぷつと生まれ消える中で、これがおそらく人の理解の限界なのだ、と理解する。無知の知、そのレトリック。人は限界を規定することで自己の人生を規定する。のかも。
A.カワイイには限界がある。ただし私的な話に限って。
私は私の人生に輪郭をあたえる。限界という2B鉛筆を使ってくっきりと描き、塗る。その肖像はどことなく私の顔に似ている。

まどろんでいるのは、猫。思いきりの良いあくびで、アスファルトにごろん。隙だらけの姿、隙なしのカワイさ。まるで寝釈迦の如き尊さ。フィボナッチの尾は本能の数学。気まぐれな黄金比
完成されたカワイさを前にして、私は反射的に怖じ気づく。おいおい、こんなにカワイくて良いのかよ、限度ってもんがあるだろう、と。思わずよだれが垂れかかる。いかんいかん。
そんな猫を前にすると、それ相応のカワイさでもってあたらなければならないのではないか、という出所不明の観念に囚われる。鉛筆のせいで黒々とした指を持つ私のような大人は、はたしてこの猫をナデナデする栄光に浴することができるのであろうか?容易に、安易に、その小さな御頭に触れてはいけないのではないか?塩を溶かした風呂に入り、無垢な白装束をまとって、ようやくナデナデしてもよろしいですか?と請うことが赦されるのではないのだろうか?とは思わずともやはり少々腰がひけるのは確かで、深夜にトイレに立つ際の無駄な忍び足に似たデリケートさでもって猫のご機嫌を伺いながら、猫じゃらしがあればなあ、というのび太くん的思考を巡らせて、ゆっくりと徐々にそっと手を差しだす。神のごとき猫に。

 

私は限界を塗りかえるだろうか?

立ち上がった瞬間に今からやろうとしていたことを忘れるという理不尽

「人は自分で檻を作り、その中で暮らす動物だ」

完璧な引用ではないが、このような一文を何かで見たか聞いたかした覚えがある。作品名はまったくもって思い出せず、それが小説だったか、漫画だったか、映画だったか、なんだったか。その記憶が脳のシワのいったいどの部分に迷い込んだのかは知らないが、そいつの尻尾をなかなかつかむことができず、いっこうに思い出せない。人は、思い出したくない記憶を閉じ込めるために自分の脳にシワを数多く刻み込んだのかも知れない。と、ふとそう思う。仮にそうだとして、結果的に私のように思い出したいことも思い出せなくなってしまったのだとしたら、それはそれで本末転倒もいいところであり、しかしそれはそれで非常に人らしいとも思う。健康を気にしすぎてノイローゼ気味になるのが、いたって健康的な人間像である。

檻であった。檻に話を戻す。
人が作る檻については、私は体験的にその脅威を知っている。とりあえず引越し作業などをやってみると判りやすい。貴方の場合、なにが檻に相当するものなのかは知らないが、私の場合、本が檻となる。
私にとっての本とは、即ち習慣である。そしてそれは檻だ。
習慣という檻。習性ではない。今から約五年くらい前にこさえた檻だ。五年経った今でもまだ習慣として——つまり檻として立派に機能しているという事実から、どうやらS◯◯◯製ではないらしい、と言える。しかし劣化するどころかむしろ強化されつつあったりするので、この檻は私の知らない新手の合金で作られているのかも知れない。自己成長型の合金で作られた檻。まるで年輪のごとく鉄格子は太り、時を経るごとに脱出は困難を極める。檻から出なければ引越し作業はできず、檻は部屋のあちこちに仕掛けられている罠である。仕掛けられている、と半ば成り行きで記述してしまったが、すべては私の仕業である。人のせいにするのは良くないと思います。

檻とは習慣であり、つまり私の場合は本である。
本が習慣で習慣が檻である以上、きっとそこには鍵が存在するはずだ。鍵のない檻など聞いたことがない。まあ世界は広いから、鍵なしの檻がひとつやふたつくらいは存在するかも知れず、しかし私は寡聞にしてそのような檻を知らない。入口があれば出口があるように、それが何かを閉じ込める機能を持つものならば、やはり鍵がなくてはならないだろうと思う。あるいは鍵のような何かが。それさえあれば今すぐにでも引越し作業に取り掛かることができるのだが、さて、鍵はどこにあるのか。

私たちは鍵を超重要なものと認識している。超である。しかし鍵という存在はしばしばその姿をくらますことで有名だ。一切の予告なく、唐突に、私たちの油断を突き、超姿をくらます。確かここらへんに置いたはずだが……。少しでも自信のない素振りや己の記憶を疑ったりしてみようものなら、その時点で鍵はそこにはない。第二候補というより第二希望の場所にもない。もちろんそこから第三第四とまったく順当に思える希望の繰り下がりが続き、やはり順当に希望はついえる。原因はおそらく初っ端に見せた弱気である可能性が超高い。その一寸の隙に、鍵はつけこむ。いったんつけこまれてしまうと、そこからグリッと時計回りに九十度の傾きでもって開錠されてしまう。千丈の堤も蟻の一穴から。鍵が鍵である以上、何人たりとも鍵をひとところに縛りつけることはできない。なぜなら檻すら開けてしまうようなやつだ。あのちっぽけなやつはこう言ってたぜ、旦那。玄関に置いてある小物入れの中にこのおれがずっといると思うなよ。おれは鍵なんだ見くびるな、ってな。傘が言う。
生意気なやつめ。

玄関の鍵でさえそうなのだから、それが檻の鍵となるともう始末に負えない。きっとすぐどっかいく。檻は閉じ込める専門だから、何かを閉じ込めてしまったら、そこから当分の間は檻の鍵の出番はない。結果、旅に出る。何かこう、鍵に対し服従を強制することのできる装置が必要だ。それも目に見えて判るかたちのものが良い。そんなかたちのものがあれば良い。
たとえば看守の腰には警棒と拳銃がぶら下がっている。つまりはそういうことだ。彼らは傍若無人にすぎる鍵を従わせるために、目に見えるかたちで武装を施している。檻の内部にいるものに対してではなく、あくまで鍵に対してだ。兵器は抑止力なのである。それは鍵の世界でもそうだ。看守が持つあの鍵束を見ればその抑止力の効果がどれだけのものか、もはや言うまでもない。

私たちがその平々凡々な日常において、すぐさまこさえることのできる兵器と言えばゴム鉄砲くらいなものだが、それでもないよりはマシと思うのか、あっても無駄だと思うのか、その判断は各人の価値観に任せるとして、話がいつの間にか檻から鍵へと移ってしまっていることにはお気づきだろうか。

檻の話を閉じ込めておく檻というものがあるのかは知らないが、本あたりにやらせてみるってのはどうかな?
檻の話もきっと引越しできなくなるだろう。

 

何の作品だったか、思い出せない。

鹿賀丈史がパプリカを食べる人で別所哲也がハムの人で

コック帽の中には何が入っているのか
気になる

あれだけの高さがあるのだ
「何も入っていないですよ」
ということはなかろう
いったい何が入っているのか
気になる

ぼくは気になることがあると
深刻なまでに気になりまくってしまい
食事がまったく喉を通らなくなる
という反自然的な哲学者体質ではない
丈夫な体に産んでくれた母に感謝だ
なぜといってここは定食屋である
とんかつ定食が運ばれてきた
あのコック帽の中にはいったい
ああ気になる

順当にいくとウサギかハトだ
もちろん仕込み前の状態で
そう考えてみてぼくはぼくの正気を疑う
どのルートを辿ればそれが順当になるのか
だってほら断面図化してみてよ
なんとか百科事典に載ってそうじゃん
あっすいませんおかわりを
(ご飯のおかわりが無料なのだ!)

夢が詰まっているのです
というチープな常套句
最後の仕上げで料理にまぶすんですがね
夢ってやつは逃げやすいですから
それまで帽子に入れておくんですよ
もちろんタッパーでも良いんですが
でもそれだと何だか味気なくって
だったらそれ用の帽子作ったげるねって
ええうちの家内がですねえへへ
へえそうなんですねと納得するほど
ぼくは二十世紀的ではない
ゲレンデでロマンスの神様に会えたら
少しは信じる気にもなれるのだが

一定量のラジウム
ガイガーカウンター
青酸ガス発生装置
そして猫が入っている現実は
それらが入っていない現実と
重なりあった状態にある
そしてコックは終業時に二択を迫られる
入っているにマークした方のみお答え下さい
猫は生きていると思いますか?
それとも死んでいると思いますか?
1.生きている
2.死んでいる
そう思った理由をお答え下さい(記述式)
向こう側の世界だけでも
せめてしあわせでいてほしいから
さてコックはどちらにマークしたのか
気になる

仮に何も入っていない場合
即ちそれはデッドスペースということになり
匠の技が可及的速やかに要求される
ただの収納として利用する者が二流と呼ばれ
収納に+αを盛り込む者が一流と呼ばれる
例えば階段としての機能
例えばテーブルとしての機能
例えば収納を収納する収納としての機能
そしてそれを収納する収納と以下同文に続く
消失点はどこまでも引き伸ばされ
小数点以下の収納に宇宙が生まれる
その収納は匣と記述される災厄であり
人は匣の底にあるとされる希望のみを求め
文字通りの底なし収納に身を投じる
気づいたときには前に進めず引き返せず
匣の底に希望があるという希望は
万人にとっての希望であると言えるのか
それはコック帽の中には何かが入っている
という希望と同様に怪しく不確かなもので
なんということでしょう
場合によって希望は絶望より質が悪いときた

外付けHDDという思いつき
ジャンル別の料理法を記録保存する装置
帽子の高さは保存容量に比例する
だから一流シェフの帽子は高いのかなるほど
ということはだ
シェフの気まぐれランチなるものは
つまり帽子を選ぶところから始まるのかも知れない
今日は肉料理に特化したシェフの帽子
今日は魚介料理に特化したシェフの帽子
今日は今日は今日は……
世に名高いシェフともなれば
その帽子コレクションは十指に余る
曰く『マッド・ハッター』
まったくシェフがシェフなのか
それとも帽子がシェフなのか
これはそういう問題だ
時に多国籍料理を得意とするシェフは
きっと中国変面を体得しているに違いなく
中国と言えば満漢全席が有名だが
それを網羅している帽子の高さとは
いったいどれほどのものなのだろう
疑問と妄想は尽きそうにない

これで750円なのだから
この定食屋はかなりお得だ。

燃えない豚は、ただの豚じゃないと思う。

煙が風にのって流れてくる。ここは風下にあるらしい。私はとある駐車場にいた。どこにでもある、ありふれた駐車場。
直径数百メートルに及ぶ黒色火薬の造花が夏の夜空を彩る。不思議なもので、その炸裂の一時だけはうだるような夏の暑さを忘れる。なぜ夏には花火と決まっているのだろう、そう思っていたが、なるほど、そういうことなのかも知れない。
どん。
遥か頭上を過ぎ行く夜雲が朱に染まる。空と雲の境界が閃光によって暴かれる。放射状に展がる色とりどりの無数の火球が、建物の合間を縫ってようやく視界へ入りこむ。たとえそれが花弁程度の切れ端だろうと、思わず暑さを忘れるほどに美しいと感じた。同時にわたしが住むこの街の建物は高いと思った。ここは、花火をやるには些か狭すぎる。
街灯の明かりが白く薄ぼんやりとしたものになり、まるでミルクの膜に包まれたかのように光っている。おそらく光が煙の微粒子に乱反射しているのだろう。炸裂光と炸裂音の間隔はおよそ二秒。七百メートルの隔たり。〈花火を観ている〉という実感は、〈煙〉という残滓からも得ることが出来る。まあそれが六千発分の残滓ともなれば、たとえそれに風情を感じようとも鬱陶しさはぬぐいきれない。気づくと火薬の香りがしていた。
どん。
片手に缶ビール。ちびりと飲む。喉ごしがぬるくなってきたが、大輪の花束の下だ。贅沢は言えないと思った。気まぐれにSNSを見ると、エアコンによって暑さを奪われた屋内で花火を見ている優雅な方々がおられる。きっとテーブルの上には酒がある。まったく優雅なものだが、きっとそこに雅はないのではないか、とひとり思う。残り少ないビールを一気に呷る。古びた建物の屋上に切り取られた花火が見えた。

どん。
窓に切り取られる花火。建物に切り取られる花火。
都会の花火は常に何かによって切り取られている。
切り取られることによって美しさを増す花火は存在するのだろうか?窓が、建物が、それら障害物があってはじめて存在が成立する花火。「人が想像することは実現され得る」と誰かが言っていた。であるならばあるいは、と思ってしまう。例えばゴジラ型の花火とか。咆哮の効果音付きで。出来る出来ないはさて置いて、私は想像の羽を伸ばす。ほろ酔いというよりはむしろ千鳥足の羽を。
どん。
しかしそこにゴジラの姿はなく、あるのは空、建物、花火、エトセトラエトセトラ。多くのものが溢れかえる中で、真に望むものは現れず、そして容易に探し出せない。それはそういうふうに出来ており、かくれんぼの名手なのかも知れない、とも思う。ただ単に探し方が悪いという見方も出来るが。そのような見方が出来る出来ないはさて置いて、私はゴジラの到来を待つことに専念する。刹那に花開くゴジラを。夜空を暴く閃光としてのゴジラを。
どん。
初代玉屋は鍵屋の元番頭で、鍵屋から暖簾分けされた身分なのだという。分家でありながら本家を凌ぐその実力とは、はたしてどのようなものだったのだろうか?夜空にゴジラを咲かせることは?モスラは?
どん、どん、どん。
どうやら終わりが近いらしい。

私は駐車場から立ち去る。
ただ空っぽの缶ビールだけを持って。