『バッグの中で』

 おひとり様ですか、という店員の問いかけに、というよりはむしろ確認に、はい、と打てば響くように、しかしかろうじて聞き取ることができる声量で答えてしまったDだったから、やはりマニュアル通り、カウンター席に案内された。

 カウンターならばどこでも良いということだったので、入口からいちばん遠い席に座った。そういう男だった。
 椅子の下には荷物を入れるための籠が置いてある。
 Dはナイロン製のバックパックを背負っており、それを籠の中に入れたい。
 別に椅子の背もたれに引っかけても良いのだが、せっかく籠があるのだからとDはバックパックを籠の中に入れたいというまったくどうでも良い欲求のつむじを心中の手のひらでよしよしと撫でさする。椅子に座った状態で前屈し股ぐらに右腕を突っ込んで籠を引き抜く。と、予期せぬ手応え。
 籠の中には知らないバッグが入っていた。
 思わぬ先客にDは自分でも信じられないほどの狼狽えを見せた。
 事の大小はあれど、それは例えば、ダムの壁面に走る亀裂を見つけてしまったときに立ち上がる責任感によって引き起こされるものと同根の狼狽えだった。そしてその問題を直接に解決出来ない不甲斐ない自分をDは認めた。次にその不甲斐ない自分をDは責めた。そうすることで謂れのない罪悪感が生み出され、そしてDはその罪悪感を無意識的に育み、次第に幹は太り枝葉は拡がってゆく。充分に育った罪悪感の奇妙な枝に首縄を垂らし、踏み台に足を掛け、ひと息に蹴り倒す。取るに足らない存在、ちっぽけな自分、己のうちに棲む認めがたい存在を己で断罪し極刑に処すことで、人は日常的に発狂を免れる。これはほんの一例であるという断りを入れておくが、ときに死は慰めという形をとるものだ。Dは役立たずの自分を責め、果たすことの出来ない責任を彼——しかしそれは紛れもない自分自身——に転嫁し、その責任を小さな自死という方法によって葬ることで自らを断罪し、大部分の自分たちを慰めた。不自然で不必要な自死——自死はいつだって不自然で不必要だ。しかし慰めにはなる。だがDは気づいていなかった。不自然に、そして不必要に葬ったのが実は等身大の自分だったということに。なぜか? 当事者の手もとには死よりも先に慰めが届く。死は常に最後にある未来なのだ。
 局所的自死後、生きているほうのDは数秒の石化から回復した。とりあえず自分のバックパックを背もたれに引っかけてお冷を待つ。お冷が運ばれてきたときに忘れ去られたバッグの存在を店員に告げようと思いながらお冷を待つ。籠の中に持ち主不明のバッグが安置されているという状態でお冷を待つ。待ち続けるDは思う。据わりが悪い。文字通り。
 しかし待てどもお冷は運ばれてこない。
 それもそのはず、店内には〈お冷はセルフサービスです〉という張り紙がされていた。ノーサービスの誤用。しかしDはその張り紙に気づかずお冷の到着を待ち続ける。さながらセリヌンティウスの決意。しかしセリヌンティウスはその作中で一度だけ……。
 メニュー表を取った。開く。定食の画像、画像、画像がおびただしい。
 低解像度のしょうが焼き定食を認めた。Dは過去の経験と想像力を駆使してしょうが焼き定食のあるべき姿を補完した。800円。決めた。
 Dは渇き、べたりと接着してしまった喉を無理矢理剥がすようにして発声したものだから、それはほとんど言葉になっていなかった。どちらかというと軽自動車のタイヤが小さな段差を乗り越えるときの音に似ていた。Dはおそらく「すみません」と言いたかったに違いない。状況的にそう推測できた。実際にそのタイヤ音のごとき声を偶然に聞き拾った店員のひとりがそう推測した。推測したのだが、それはあくまで推測であって、思い返してみると、それはだんだんと言葉ではないような気がしてきた。そう思えば思うほど、そうに違いない、空耳の類いだろう、という心持ちになってしまったものだから、その店員はDの言葉になり損ねた言葉を雑音として処理してしまった。Dは契機を失した。
 ひとりぼっちのDは遠慮がちに店内を見回した。
 入店時は空席が目立つ店内だったが、気づくと満席に近かった。テーブル席に空きはなく、カウンターの数席を残すのみで、それはDの隣と、入口に最も近い席。
 店員が忙しそうに店内をぐるぐると駆け回っている。
 忙しそうだな、もうちょっと待つか、とDは思った。そういう男だった。
 どうも手持ち無沙汰になってしまったので、椅子の下に放置している例のバッグが気になってしまった。それはDの下で再び不気味な存在感を放ちはじめた。ぐらぐらと、まるでマグマのごとく、湧き上がる窃視衝動。Dは必死にそれを押さえ込むべく、努力をしていた。
 バッグの中身が気になるのだ。
 そのバッグは婦人物のデザインだった。よくテレビの通販番組で叩き売りされている、必要以上の増改築を繰り返した醜怪な建築物のような、贅肉的逸品。ひとたび美術館に置けば、きっと現代アートとして評価されることだろう。これはウォーホール的アプローチがどうのこうの……。
 いったい何が入っているのだろう?
 手持ち無沙汰な状況がその欲求の業火にせっせと薪をくべる。しまいには油を注ぎ、新鮮な酸素さえ供給する始末。まるで「覗け」とでも言わんばかりの状況。隣には誰もいないぞ、誰もお前なんぞ見ちゃいない。さあ、覗け。覗け。覗け。
 覗いてしまえ!
 Dはひたすらにメニュー表を凝視する。凝視し、凝視し、視ていない。
 何も視えていない。
 心ここに在らず、だった。ではどこに?
 無論、あのバッグの中だった。
 Dはバッグの暗闇を手探りでさまよい歩いていると自覚する。何も視えていない。あまりに何も視えていないので、ここがバッグの中なのかさえ分からない。おれはどこにいるのだろう? どこに〈在る〉のだろう?
 男はとたんに恐慌をきたし、叫びたくなる。誰かおれを見つけてくれ、と。しかし喉が渇いてうまく叫べない。店員さん、お冷を、早く、うまく、叫べ、な、いんです。
 そんな状況にあってなお男は、まあ、でも、などと思ったりするのだった。おれは別に困ってはいないじゃないか。今までと何も変わりはしないじゃないか。そう、何も。何もかも。
 そしておそらくはこれからも。
 男はひとり思うのだった。
 カウンター席の一番奥の座席の下にある籠の中のバッグの中のどこかで。誰にも知られず、知られたいとも思わず、決してそれが好きだったり面白かったりするわけではないのだが、それが一番手っ取り早くて一番楽だからという理由で。
 男は、だから、ひとり思うのだった。
 男は、実は、今まで一度も叫んだことがなかった。だから、ひとり思うのだった。それしか方法を知らなかった。叫ばないでも済む環境、それで許される環境を無意識的に選択し、そこに潜り溶けることで生きてきた。男はきっとバッグの中の四隅のいずれかにいた。目を開けても閉じても何も変わらず、ただ壁に背を預けながら、ひとり思うのだった。その割には自分を自分で死に追いやるほどに憎み、そして好いているということには思い至っていない。何も視えていない。
 そういう男だった。