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火サスの崖の端っこで犬か猫か選べと言われたらおれは海に飛び降りる

目には目を歯には歯をという考え方では、カワイイにはカワイイをという事態になりかねない。カワイイの欠片もなく、しかし犬猫の類いが好みである私にとっては非常に辛いものがある。限界の二文字が私の行く手を阻む。だがな、そんな世界、俺が否定してやる。

人には限界というものがある。人が人である以上、それはいつまでもどこまででも前だったり後ろだったりについて回る黒い影だ。朝ベッドの上で目を覚ますと限界が隣ですやすやと寝息を立てていた。これは……そうこれはきっと何かの間違いだ。間違いない。もう一度寝てもう一度起きたらきっとすべて元どおりだ。よし寝よう羊が一匹羊が二匹……。
限界は絶望と同義で、柵を乗り越えやって来る十三匹目は白い羊ではなく半人半獣の黒山羊だ。その禍々しきものは限界を迎えてしまったあなたに限界を超えるための取引を持ちかけてくるので、あなたは充分に用心する必要がある。あなたの心に『充分に用心するだけの判断』の在庫が残っていればの話だが……。

限界という言葉を安易に使いたくはないと思ってはいるのだが、もちろん充分に言葉を選び考えた上での発言だ。だって最近のBLOGは炎上だ何だとやたらに物騒だから、充分に用心するに越したことはない。
しかし仮に、これで充分だろうと判断したとしても、その判断が100%確実に充分であるという保証はどこにもない。それが、限界だ。つまりそれが、人の、限界なのだ。人が人である限りは。そう、人が人である限りは……な。どうだ、俺様と取引をする気はないか?お前がその気なら今すぐにでもお前の限界を引き延ばして……
ちなみに今はセール期間中だぞ。お前は運がいい。

カワイイには限界があるのだろうか?
無いような気がする。気のせいだろうか。気のせいかも知れない。しかしある程度の上限を設定しておかないと、それはそれで厄介なことになりそうな気がするので、多分あるのだろう。上限がないのであれば、それは神と競うことが出来るということになる。競えるのであるならば、少なくとも勝てる余地があるということで、つまり宗教者らを絶望せしめる〈if〉——すなわち〈神に勝利してしまった場合〉という筋書きが開通してしまう。〈神カワイイ〉を超えるカワイイとは、果たして人の認識可能な次元で捉えることが出来るカワイイなのであろうか?そもそも人が理解できる範疇にあるのだろうか?誰ひとりとして理解出来ないカワイイとは——たとえ神を負かしていたとしても——カワイイと言えるのか?数多の〈?〉が滝壺の気泡のようにぷつぷつと生まれ消える中で、これがおそらく人の理解の限界なのだ、と理解する。無知の知、そのレトリック。人は限界を規定することで自己の人生を規定する。のかも。
A.カワイイには限界がある。ただし私的な話に限って。
私は私の人生に輪郭をあたえる。限界という2B鉛筆を使ってくっきりと描き、塗る。その肖像はどことなく私の顔に似ている。

まどろんでいるのは、猫。思いきりの良いあくびで、アスファルトにごろん。隙だらけの姿、隙なしのカワイさ。まるで寝釈迦の如き尊さ。フィボナッチの尾は本能の数学。気まぐれな黄金比
完成されたカワイさを前にして、私は反射的に怖じ気づく。おいおい、こんなにカワイくて良いのかよ、限度ってもんがあるだろう、と。思わずよだれが垂れかかる。いかんいかん。
そんな猫を前にすると、それ相応のカワイさでもってあたらなければならないのではないか、という出所不明の観念に囚われる。鉛筆のせいで黒々とした指を持つ私のような大人は、はたしてこの猫をナデナデする栄光に浴することができるのであろうか?容易に、安易に、その小さな御頭に触れてはいけないのではないか?塩を溶かした風呂に入り、無垢な白装束をまとって、ようやくナデナデしてもよろしいですか?と請うことが赦されるのではないのだろうか?とは思わずともやはり少々腰がひけるのは確かで、深夜にトイレに立つ際の無駄な忍び足に似たデリケートさでもって猫のご機嫌を伺いながら、猫じゃらしがあればなあ、というのび太くん的思考を巡らせて、ゆっくりと徐々にそっと手を差しだす。神のごとき猫に。

 

私は限界を塗りかえるだろうか?