プロローグ的な

人生のヒロイン探しをしているのならば〈季節外れの転校〉などをやってみたりすると、人生という長期的な尺度でものを見た場合、存外に手っ取り早く見つかったりする。

 

窓際あたりの席で頬杖をつき、半覚醒気味の眼で見るとはなしに校庭に迷いこんだ犬を見ながら、あくびを噛み殺すそぶりも見せぬ奔放な娘の作画は終始乱れない。
そのような娘がいる教室に入り、とりあえず簡潔な自己紹介あたりからしてみると良い。

きっとそのような娘あたりが席を立ち、あーだのえーだの言い出すに違いなく、もれなく「アンタ今朝の」と続けてくる。

【過去の回想】
それは曲がり角での出来事
おせっかいな神様のステキなイタズラ
~ジャムトーストを添えて~
【過去の回想】

事が定石通りにベルトコンベア上を進んでいるのなら、娘の震える指先があなたの顔を捉えて離さない。

 

あなたに用意された席は娘の隣である。
定年が間近に迫る年配の先生からそう告げられる。
なぜといって、かなり都合良く娘の隣が空席なのであるからそうなのである。
これは有史以前から何かしらの理由でそう決まっていて、星々の運行のように正確且つ周期的なものであり、ここであなたの〈教科書を忘れる〉という予定とそう大差のない定型である。

教科書を見せてもらう際、なんでアンタなんかにとか、しょうがないわねとか、娘から一方的に嫌悪感を丸出されている状態のあなたなのであるが、しかしあなたがこれまでに行なったことと言えば自己紹介くらいなもので、なぜこのような仕打ちを受けなければならないのか、その理由がまったく判らず、自身の置かれた境遇を呪ってみたくなるかも知れない。あなたが人生におけるある種の諦念や達観を会得しているのなら、やれやれと肩をすくめてしまうかも知れない。やれやれ転校早々先が思いやられる、という具合に。
しかしこれはほんの少しだけ諦めずに待ってみて、決して損はしない類の話なのである。

体育以外の授業風景は諸事情により、というかスポンサー的なアレにより割愛される。

 

放課後。
親しい友達のいないピカピカの転校生であるところのあなたは、おそらく一人きりで帰路に着く。
鞄を手に持ち、教室を出る。
前方には件の娘。
娘の後ろをあなたは歩く。
前を歩く娘。後ろを歩くあなた。
前に娘。後ろにあなた。
もちろんこれも定型であり、あなたと娘の間に、カチリカチリと歯車が組み立てられる。
人気のない丘を登り、夕陽が街並みへと消えかかる頃に至ってようやく、先に業を煮やすのは前を歩く娘の方である。

「なんでついてくるのよ」

このような手合いに対し、質問を質問で返すという行動は愚行中の愚行であり「なぜお前が俺の先を歩いているのか」と問い返してみたいという好奇心なんぞは、ひと思いにキュッと絞め殺すべきである。ここは素直に「俺ん家こっちだから」と返すに限り、この類の物語はベターに事を進めることこそが肝要なのだ。

「別の道で帰りなさいよ」

娘は〈必然〉が人型を成したような娘であるから、まず間違いなくこう言い返してくるパターンの〈必然〉なのである。
そこであなたはこう思う。自宅と学校とはほとんど一本道で結ばれており迂回路などないのだが、と。
あなたはそのような思考を「いや、その…」という曖昧にすぎる前置きから始めて〈必然〉に伝えようと努力する。
そこで一陣の風が吹く。いや、〈必然〉が自身の半径50メートル以内にのみ風を吹かせる。〈必然〉のスカートがたなびきめくれ、あなたは絶対的な不可侵領域を目撃する。

「何も見てない」
「変態!」

ラッキースケベ〉とは何かの思惑によってそのすべてが仕組まれた〈必然〉という機構のほんの一部分を切り取った現象にすぎない。娘が〈必然〉そのものであり、その一部を成す不可侵領域が〈ラッキースケベ〉として機能しているという事実が何よりの証明である。
無意識的に間の抜けたリアクションを採ってしまったあなたは、くっきりと紅葉型に腫れた左頬を土産に持ち帰ることになる。これはもちろん通過儀礼であり、これより先に進むための通行手形である。

 

翌朝。
ネクタイの存在意義を脅かしかねない造作で、丹念に丁寧にノットを緩め終えたあなたは、二度目の登校をするべく玄関を開ける。
そこで〈ラーメン屋で隣の客と水を飲むタイミングがかぶってしまう現象〉と同種の気色悪さが寝起きのあなたを唐突に襲う。隣家の玄関が同時に開くのだ。

隣家の玄関には〈必然〉。

「何でアンタがここにいんのよ」

朝っぱらからではあるが我慢が肝要である。この先、この類の我慢すべき場面は山ほどあるのだから。ブルペンでの肩慣らしであると思うと良い。

「ここ俺ん家だから」

あくまで素直に。一問一答形式を崩さずに。Q.1に対してはA.1で。そうすることで〈必然〉の方から勝手に仕掛けてきてくれるし『雄弁は銀沈黙は金』なのだ。どう足掻いても〈必然〉の思惑通りに事が運んでしまうような段階であるならば、こちら側の手数は最小限に抑えるべきだ。言うべきことだけを言っておけば良い。特にあなたは我慢を強いられる類の立ち位置にいるのだから。効率を考えて行動していないと精神力はもとより、話数から足りなくなる。

プログラマティックな仕草で天を仰ぐ〈必然〉。癪にさわるがスルーして良い。スルーするに限る。とりあえずのところ、君の仕事はここでひと段落する。〈必然〉の悲鳴でカメラが上空にパンし、EDテーマが流れるからだ。

ふう、一件落着。

 

 とはならない。

 

 

〈必然〉というものは人気がない。
ある意味において。

そのように精巧に造られすぎているキャラは、精巧に造られすぎているが故に魅力的に見えない。言葉のひとつひとつが一糸乱れぬ歯車の噛み合う音に聞こえ、やはり作画は乱れず、すべてが予め定められたビスクドール。観賞用としては悪くない出来だが、そう、あくまで観賞用として。そこに留まり、そこより先はお勧め出来ず、その先に踏みいろうとするのなら、あなたは無数の歯車に巻き込まれ粉々になり、やがてペースト状にとろける。歯車の潤滑油として機能することになる。いわゆる「ケツの毛までむしられる」というやつだ。
まったく、世知辛いことこの上ない。

 

そのように百害あって一利なし風な〈必然〉であるが、昔から言われているように馬鹿と鋏は使いようである。

使用法はいたってシンプル。出来る限り行動を共にする。ただそれだけ。

そう。ただそれだけをひたすらに12〜13話ほどこなせば良い。場合によっては24〜26話になったりするが、まあそれはそれ。最近では2分割されたりもするのでご安心を。
〈必然〉の見分け方については最前に述べた通り、〈初日に何かとイチャモンをつけてくるヤツ〉である。そしてそれは高確率でツンデレである。この傾向は21世紀に入り、より顕著なものとなっており、見分けるポイントのひとつである。
そして〈必然〉と行動を共にしたあなたは、おそらくひとつの解答を得る。

普通が一番だ——と。

つまり〈必然〉と行動を共にすることであなたなりの〈普通〉が解りますよ、という簡単なお仕事です。
何をもって〈普通〉とするのか、その解は個々で違ってくるのだけれども、そいつも含めて解る。
今まで普通じゃないと思ってたことって案外〈普通〉なんだな、みたいな。
およそそのような荒療治。理想で曇りきった色眼鏡をサラサラに粉砕するための1クール、もしくは2クール。
結局のところはちょっとクセのあるモブキャラあたりに落ち着いて、穏やかな日常を手にする。そういうのでちょうど良い。そういうのがヒロインで良い。

 

さて。
そのような日常を手に入れるためには、まず〈必然〉——つまりツンデレを手なずけなくてはならないのだが……