コロッケさんはコロッケのモノマネをしない

イヤホンと思春期は少し似ている。

例えば狭くて閉じられた暗所。状況的には密室。つまりミステリ小説で謂うところの〝ロックドルーム〟。
そのような条件を満たす場にイヤホンを放り込むとどうなるか?

絡まる。

これはどうやら絶対不変の真理であるようで、バッグの中やポケットの中にイヤホンを放り込むとどうなるか。過去の経験を振り返ってみてほしい。絡まった結び目1つを1点とカウントした場合、試しに10ラウンド行なってみて少なくとも13点は獲れる。これは得点圏打率が高いなどという範疇をひょひょいと超えており、どうもそのような次元をしれっと超越しているっぽい。つまり絡まることは当たり前にすぎる事態で、ときにしつこい。

イヤホンと思春期は少し似ている。

例えば狭くて閉じられた暗所。状況的には密室。つまりミステリ小説で謂うところの〝ロックドルーム〟。
そのような条件を満たす場に思春期の真っ只中にいる人を放り込むとどうなるか?

絡まる。

これもまたイヤホン同様、絶対不変の真理らしい。人によっては1ラウンドで2、3回絡まる。思春期が絡まる。そして二重三重に絡まったイヤホンを解くことが容易ではないように、思春期を解くこともまったく容易ではない。

もやい結びや蝶々結びなどの秩序立てられた結び目には当然、解き方というものが存在する。紐の端を引くなり押し込むなりすればスルリと解ける。1ステップで解ける。解く際に力はあまり必要とせず、そういうふうな効率の良い仕組みになっている。
しかしイヤホンの場合。こいつはバッグの中やポケットの中で、もやい結びや蝶々結びになったりしないということが判明している。絶対にあり得ないとは言い切れないにしても、まず起こり得ない。ポケットの中で戦争が起こる可能性はあれど、ポケットの中のもやい結びや蝶々結びはあり得ない。Mr.マリックが登場してやっと五分五分かも知れない。Mr.マリックがもやい結びを習得しているか否かは当局の知るところではないが、少なくとも蝶々結びは出来ると思う。ハンドパワーは伊達じゃない。少なくともポケットの中のクッキーを叩かずに増やせる程度には。

イヤホンの話であった。
バッグやポケットの中におけるイヤホンの絡まり方の基本形はだんご結びである、と統計学的見地に立ってああだこうだと言ってみると多分そうなる。輪を作り、その中に端をくぐらせて作る単純な結び目。その単純さ故、ある側面から見て厄介な結び目だ。
解きづらいのだ。
結び目がこう、キュッとなっていたりした場合、とても手に負えない。爪でもって、何というかこう……うん、そうそう……そんな感じそんな感じ。爪の白い部分が許せない深爪派の私にとってはなかなかに強敵なのですよ。何とも取っ掛かりがないのですよ。主に左耳(L)が単独でだんご結びになることが多く、私はきっと統計学的見地に立っています。しかし右脳との関係は取り沙汰されてはいません。カナル式イヤホンの注意点として、解く際に広げる輪はある程度大きくしないといけない。取っ掛かりはなくても多分引っ掛かりがあるから。その点、特に留意すべし。詳しくは取説を参照のこと。

イヤホンと思春期は少し似ている。

絡まった思春期という代物は、もやい結びや蝶々結びといった出来の良い結び目ではない。ほとんどの場合はイヤホン同様、だんご結び。それを単純に2、3回ほど重ねたものであることが多い。解きづらいことこの上なく、しかし誰だって簡単に出来る結び方なのだが、思春期はその歪なだんごの重なりを妙に好む。解けないこと=誰にも理解され得ないこと。このだんごは自分だけが知っている真実。自身で結びあげただんごの重なりをそのように解釈し錯覚する。実際のところは、誰も好んで解こうとしていなくて、関わると面倒くさいだけであり、取っ掛かりがないと言うかただ単に率先して取っ掛かりたくないだけなのだが、みんなはまだこのことに気づいていないんだ僕だけが知ってるんだ、そう思うことでひとり悦に入る。当時を思い返してみて、そんな記憶の引っ掛かりがあるはずだ。しかしそれは存外に当人の勘違いであり、およそ思春期とはそのような水漏れの激しい閉鎖空間である。と我ながら思う次第であります。

思春期と密室は少し似ている。

一見して閉じている、ように見える。がしかし、どこかが開けている。どんなに注意深く作ろうとも、どこかが確かにどうしようもなく開けている。要するにいかがわしい。実際には密室なんて面倒くさい代物を作り上げる必然性はまったくなくて、現実の犯罪行為においては蛇足以外のなにものでもないのだけれども、それを想像すること——というより妄想することは非常に楽しいもので、これは思春期特有の痛々しい想像や妄想にも同様に言えることである。そのような蛇足に尽きる妄想とは、どこかが確かにどうしようもなくいかがわしい。完全な密室が存在しないように、完全な思春期もまた存在しない。ふと思春期のころを振り返ってみて、まったく赤面しない御仁がいないように、それは水漏れが非道く不完全である。違いと言えば、密室の創造者である著者はそれを意図的にいかがわしく作り上げるが、思春期はまったく意図せずに自然といかがわしくなる。胡散臭いと言い換えて良い。同じ綻びでも、計算内の綻びと、計算外の綻びとでは、その質を異にする。思春期と密室は少し似ている。

さて、ここで三段論法。
AはBでありBはCでありゆえにAはCである。
イヤホンと思春期は少し似ており思春期と密室は少し似ているがゆえにイヤホンは密室と少し似ている。

『ゆえにイヤホンは密室と少し似ている』

これは言えるか。

これらはまったく同じでなくて良い。つまり『少し』というところがミソである。『多少』と言い換えても良いが、そもそも『多少』という単語は果たして多いのか少ないのか。おそらくはそのどちらでも使用可能な単語なのだろうけれど、『多少』ってそんな便利な単語だったっけ?と多少考えこんでしまう。


そもそもイヤホンとは耳に装着するものである。では密室はどうか?
贔屓目に見て、これは困難である。と言うより不可能に思える。密室の巨匠として名高いカーでさえ匙を投げかねない。そもそもの話として『耳に装着する密室』という文の意味が判らない。この点については似ていないと言って良い。カーを悩ますのは本意ではない。

音を出すのがイヤホンで、死体を出すのが密室、と仮定してみて、これはどうなのであろう?似ていると言えるか?
適当な信号を与えるとイヤホンは音を出す。これは良い。
では密室に適当な信号を与えてみましょう。怨恨とか痴情のもつれとか、そんなやつ。さて死体は出てくるのでしょうか?と期待に胸を膨らませてみて、しかし死体を出力するには信号を与える対象が違うように思え、そのような信号は密室自体にではなく、おそらく一番犯人らしくない人物に与えるべきである、とそれがそもそもの話だったりする。H・Mもそのような人物を探せと仰っていました。イヤホンと密室の回路機構は、どうやら根本からして違っているようで、密室とは所詮、ある種の厄介なパッケージでしかないのかも知れない。タレとかが入っているマジックカット仕様のやつとか。おそらくはそのような手合いだ。


イヤホンは絡まる。では密室は?

絡まる。
主に話が。