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早起きは三文文士の生産性に等しい

オト。おと。音。
電子音。
意識の胸ぐらをふんづかみひねり上げる電子音。ブウウーーーーーーンンンという音ではない。もっとデジタルな音。つまりは電子音。その一種乱暴な行ないに対し意識はその意識を失うことなく、かえって意識の解像度は増していく。スリープモードをENTERキーで叩き起こす。その一打はしかしPCを破壊する程ではなく、それはアラームにも同様に言えることであるらしくて、意識は刺激されるだけで破壊されるまでには至らない。毎朝起きるたびに意識をぶっ壊されていてはたまらない。
偶然とは神の存在表明なのだろうか。寝返りを打つどさくさでアラーム解除に成功する。腕立て伏せに似た要領で半身を起こし、180をのそりとかまして布団の上でおよそL字の体勢を為す。

9時31分。アラームの起動から1分の経過。機械に起こされ、ほぼ無意識的機械的アンドロイド的な反応のもとに過ごした1分間。今布団の上でL字の体勢を為す存在は果たして人か機械か。そのような議論を朝っぱらから繰り広げるのはまっぴら御免だと思考して、どうやら人であると思って良いとの結論に至る。アンドロイドと哲学者は自身の存在に疑問を持つよう予め設計された存在であり、一方で服屋の店員はそんなことを考えない。
しかし考えるだけ無駄なことを考えるのが人であり、その行為には愚かしくも魅力的な一面が確かに存在する。これは自己満足の類いに属するものだと思うのだが、しかし満足とは突き詰めてみて全て自己満足なのである。他者満足という言葉の響きにはなぜだか無性に寒気を感じてしまう。微笑みの下に狡猾な意思が隠されているものが偽善だとして、それと同質のレトリックを感じてしまう。この思考こそがつまり考えるだけ無駄なことなのだろうなと、便所に向かう足で考えるでもなくそう思う。

溜まったものを出す。排泄行為の快感と持論を他者に対して垂れ流す快感は似ている。そこには行為を隠すか隠さないかの違いしかないようにも思える。排泄物を体内に溜め込むことは害であり、同じく持論は内心に溜め込むことで腐り、やがては精神を蝕み始める。対話者が己ただ一人という状況が恒常的に続けば、いずれ精神に異常を来たすことは疑いようがなく、想像するだにどうにかなりそうである。長年の間精神の水底に寝かし続けた持論とやらは実際に受け取り難く、これを拝聴することはつまり汚れ仕事に他ならない。流れがなくては腐る。これは自然の摂理である。つまり腐る前に排泄することで、相互にスムーズで耐え得る程度にクリーンな持論のキャッチボールが可能となる。捌け口としての他者。聞き手は受け皿である。どうやら腐る寸前ギリギリ手前にある持論をどうぞお召し上がりください。腐る寸前が美味しいらしいですよ、という付け加えも忘れない。人はどうも無駄で出来ているらしいな、と用を足しながら便所にて思う。

一日は米研ぎを行うことで幕を開ける。計量カップを擦り切り一杯で二杯。きっかり二合。その内訳とは、その日の晩ご飯に割り当てる一合、次の朝に割り当てる一合。一日二合。三日で六合。六合食べて四合戻すことはしない。

米を研ぎ、炊く。この作業を経ることで、あの固い米粒が柔さと温かさを獲得し食べられるようになるのだ、と最初に考案し巷間に伝播させた人物とは果たして。米粒を研いで炊く、というどのような過程から発生したのか分からない角度の着想。限りなく無に近い状態から有を作り出した人物であることは間違いがなく、その時米粒に宇宙が生まれたのだと言ってみて、それは誇大広告であるという反論を試みる者は、米を主食とする日本にいないのではなかろうか。そのどこでどのようにシナプスが接続されたのか判じかねる着想に畏怖の念すら覚えるのが日本人としての正しい在り方なのだとも思われる。まあ偶然の悪戯という線も捨て難いのではあるが。

先人の知恵とは偉大である。研ぎ汁をシンクに流し込む行為を都合二回済ませたところでそう思う。水位を二号の目盛に合わせ、釜を炊飯器に収め、三十分間待つ。この三十分間の放置という行為もつまるところ先人の知恵であり、『米を美味く食べる』という行為の追究によるものだ。「食は文化」なるほど正しい。

日本文化である『深夜アニメ』の録画を観る。朝ごはんを食べながら観る。白ごはんと漬物。断っておくが決してお坊さんではない。そして最近のお坊さんはハンバーガーも食べる。大抵の場合、朝ごはんはアニメの前半部分を消化したあたりで食べ終わることになっているので、残りの半分は歯磨きをしながら観る。複数の行為を同時に行う。プログラムめいた行動。再びアンドロイドに近づく気配を見せはじめる。しかし片手間で見るアニメというものはあまり記憶に残らないものである。ちなみに電気羊の夢は見たことがない。いや、電気羊の夢を見た記憶を脳内からサルベージ出来ないだけなのかも知れない。ついさっき見たはずのアニメの内容を思い出せないように。歯磨きは15分かけて丁寧にやるくせに。やはり どこか プログラム めいて いる 

歯みがき・うがい・しゃべらない。口内清浄における三原則。は・う・し。How see?これといって特に誰かの、あるいは何かの様子をうかがう必要などまったくなくて、なんとなればたった今思いついた出鱈目なのですごめんなさい。むしろサンプリング元の原文を思い出す際にこいつを先に思い出してしまうようになったら困る。そのように思考回路上の障害になりかねないことから、こんなどうでも良い三原則なんてガラガラペッで排水口へ流すに限る。無言で。ここで〝は・う・し〟の〝し〟に縛られるのは予想だにしていなかったので、ついでに顔も洗っておく。無言で。再びの〝し〟。タオルで顔を拭きスッキリしたところでやはり無言なのは、〝し〟の影響も少なからずあり、加えて現状が一人暮らしだからなのであって、しかしたまに独り言を唐突に繰り出す場面もあります。敬語で。実家にいた頃よりその頻度は突出しており、疲れているときにより多く発声している傾向が見られます。安心して良い部分としては、別人格の存在を疑うほどには多くなく、別人格の様子をうかがう必要は今のところまったくない、ということくらいでしょうか。これが嘘かそうでないか、全てが嘘であるかも知れず全てが真実かも知れずほんのちょっとだけ嘘かも知れずほんのちょっとだけ真実かも知れず。
Epimenides says "All Cretans are liers."
「この文は偽である」

支離滅裂な思考を撃ち抜くにはうってつけの読書。友人からタイ土産として貰った栞を引き抜き昨晩の続きから。おさらいもかねて二頁ほどの時間遡行。紙上にxy軸の二次平面を展開する。y軸上をマイナス方向へと移動し、x軸上マイナス方向にはほんの少しだけ。そういう変位でもって活字を追う。物語が昨夜に追いつき追い越す。右足が未踏の地へと踏みこむ。紙上の時間が動きだす。物語は予め定められており、すでに紙上に著され終わっているものであり、それは不変の事実であり、読者に出来ることはそれを終わりまで読みなぞることだけだったりする。この物語の結末はまだ知らない。ということを読者は知っている。それを確かめるために読み進める。そしてその結末を知らなかったことに安堵する。それは予め知っていて、しかし無限個で存在するタイプライター猿の少なくとも一匹がシェイクスピアになり得るのであるならば、とある小説の結末を事前に読者が知り得る可能性もゼロではないのではなかろうか。いや、これはあくまで予測の範疇を出ないものであり、つまり可能性で語り得る話ではないのだろう。でも少しだけ魅力を感じてしまう考えではある。

小説は活字の砂山だ。秩序立てられた文字の砂山。文字の一粒一粒が在るべきところに置かれた砂山。その砂山から一粒の文字をランダムに抜き取ったとして、その文字列は依然として砂山と言える代物か。それが砂粒であれば、まあ砂山と言えるだろう。砂の一粒如きで砂山の存在は揺らがない。ではそれが文字だったらどうか。秩序立てられた文字列だったら。おそらくそれは抜き取る場所にも依る。冒頭もしくは末尾から抜き取る場合、疑い深い読者ならばその空白に何らかの意味を見い出し、そして《意味深な砂山》などという感想を得るだろうと予想する。その抜き取られた文字の空白部分を埋めるように、様々な解釈をひねり出し詰め込み、それなりにもっともらしい答えをこね上げてみて、きっとそうに違いないと一人合点する光景がまざまざと目に浮かぶ。作者のまったく意図しないところで、斜め45度の解釈が為される。反比例の弧を画く場合もある。わざと一文字抜いてみて、読者の感想とは果たして。少し見てみたい気も る。あえて一文字足してみたりしても良いい。これで±0。この数遊遊びは少しだけ面 い。特に意味はない。それが物語の中頃だと、出版社のお客様相談室に電話がかかる。

10時50分。そろそろ職場へ向かう時間だ。着替えに割ける時間は5分で、そしてそれが最初の仕事。服と言葉は他者に何かを伝えるという点においてその一致を見ている。加えて、他者から誤解されるという点においても同様に。そんな気がする。言葉には主語があり修飾語があり述語がある。服にも一応主語らしきものがあってついでに修飾語らしきものもあってつまりは述語らしきものがある。言葉は聴覚に働きかけ、服は視覚に働きかける。出力する形態や入力する感覚器は違えど、他者から発せられた情報を受け手側が自分勝手気儘に咀嚼し選り分けるというところが、なんだかとても似ているとぼんやり思う。「若者アスリートの肉離れ」と聞いて、右ふくらはぎあたりの故障なのか、それとも単なる菜食主義者なのか。この一文から2通りの解釈が可能なように、ひとつの服装にも様々な解釈を得ることが可能である。短パンに短パンを重ね着してみて、ダサいと思う人もいれば、斬新だと誉めたたえる人もいる。ここには多数派少数派という概念のために用意された椅子は存在しない。多数決で決まってしまう事柄にしてはあまりにも多様性に富んでいて、水のように不定形なものなのだから。言葉も、そして服も。主語修飾語述語。この一見して窮屈そうに映る書式の中で、縦横無尽に、生気溌剌に、その領域を拡げる言葉とは喩えて宇宙。限られた場所で材料で、それらのポテンシャルを引き上げて象られる宇宙。ときに足し、ときに削ぐ。宇宙は無限だ。いや、有限だ。多数決でそう決まるものではなく、宇宙はただそこにあるだけだ。言葉もただそこにあるだけで、服もただそこにあるだけ。様々な解釈があり、本当のところは誰も知らない。人は単純さの中に宇宙を見い出す奇態な生き物である。

さて10時57分。つまり2分の超過。急いで靴下を履く。タイムイズマネーとはいったい誰が言い出したのだろうか。朝の1分とは砂漠のボルヴィックに匹敵すると勝手に思っているのだが。つまりタイムイズウォーター。時間はまるで川の流れのように。社会は硬水だろうか、それとも軟水だろうか。

ブーツの靴ひもをしめて、ドアノブに手をかける。これもまた仕事のひとつ。なんだか眠たくなってきた。