設立理念にかえて

これは言うまでもなく比喩であるが、昔のとある偉い人は「人間は考える葦である」と言った。誰もが一度は聞いたり読んだりしたことがあるだろうと思われるあまりにも有名な比喩。そしてあまりにも使い古されてしまった、手垢まみれの比喩。
ところで知っていましたか?葦の内部構造はまったくの空洞であり、つまりスカスカなのだということを。たった一本ではあまりに無力な植物ですが、しかし束ねれば紐にもなるし、もっといっぱい束ねれば船にもなる。なんと人間的な植物なのだろう。そうは思わんですか?えっ、そういう意味じゃない?

もう一度言おう。人間は考える葦なのだ。だから私は今日も考える。昨日も考えたのだし、そして明日もきっと。

何について?

 例えば仕事について。例えば人間関係について。例えば今日の夕食について。例えば読んでいる本について。例えば降水確率40%の場合に傘を持って出掛けるべきかについて。例えばどのレジが一番早く流れているかについて。例えば散髪のベストタイミングについて。
そして、例えば人生の奇妙さについて。

空を見上げて、「多少雲がある」「でも晴れの範疇だろう」「風が若干強いな」「ぬるい風だ」「雨の心配はないかな」「あ飛行機だ」「何キロ出てんだろ?」と、ほとんど無意識的に〝思う〟が、一方で天気予報をチェックしてみるとお天気アナが降水確率は40%でしょうと愛嬌たっぷりでお伝えしている。そこで私は「ここは万が一に備えて傘を持って出掛けるべきだろうか?」と意識的に〝考える〟。40%。さて、この数字、どう見る?
傘を置いていくことにした【私その1】の世界線では40%の確率を見くびった罰として雨に降られてしまい、反して傘を持っていった【私その2】の世界線では天気に恵まれ傘の出番は終始なかったのであるから、人生とは何と奇妙なものか。いやそういうことを言いたいわけじゃなくて。折りたたみ傘があればなあ。でも小さいからあんまり意味ないもんなあ。せめて65cmは欲しい。いやだからそうじゃなくて。

つまりだ。〝考える〟という行為はやはり〝思う〟という行為の凝縮と抽出の果てに滴り落ちる一雫なのだろう。と、誰と分かち合うでもなくひとりでそう了解したわけなのだ。

前置きが長いな。そろそろ本題に入れ。みんなから〝頃合〟と呼ばれている奴がそう野次を飛ばし始めている。ではリクエストにお応えして、ここでこういう一文なんていかがか?

「一行の陰に死んだ九十九行がある」

これこそが本ブログの基本理念である。

つまり……どゆこと?
つまり、私が〝思う〟ことをただひたすらツラツラと、そしてダラダラと記していく、とゆこと。
一行を生み出すために犠牲となった九十九行に光あれ、ということだ。ここでの一行とはもちろん意識的に〝考える〟ことであり、九十九行とはお察しの通り無意識的に〝思う〟ことである。〝考える〟ということは数多の〝思う〟で出来ているのだ。
「我思うゆえに我あり」とはデカルトがたどり着いたという単純化の極北。その〝思う〟という意識の表層にヒラリと煌めく一瞬のほうき星をふん捕まえて舞台へ引きずり出す、という作業。

とまあこんな感じで、三沢vs川田戦的に言うところの投げっぱなしジャーマン三連発でこのブログは続いていきます。グレコローマンスタイルだとカレリンズ・リフト。当ブログは頚椎を痛める恐れがあります。しかしグレコローマンって響き、外はカリッと中身はトロ〜りって感じじゃないですか?まあそんなことはどうでもいいんだ。
いや、しかし、〝思う〟ことを記すということはそういうことか。あー頸痛え。

とにもかくにも。
ここは私の、私による、私のためのブログ。
そんな猥雑な彼岸を、これから少しずつ描いていくとしよう。