プロローグ的な

人生のヒロイン探しをしているのならば〈季節外れの転校〉などをやってみたりすると、人生という長期的な尺度でものを見た場合、存外に手っ取り早く見つかったりする。

 

窓際あたりの席で頬杖をつき、半覚醒気味の眼で見るとはなしに校庭に迷いこんだ犬を見ながら、あくびを噛み殺すそぶりも見せぬ奔放な娘の作画は終始乱れない。
そのような娘がいる教室に入り、とりあえず簡潔な自己紹介あたりからしてみると良い。

きっとそのような娘あたりが席を立ち、あーだのえーだの言い出すに違いなく、もれなく「アンタ今朝の」と続けてくる。

【過去の回想】
それは曲がり角での出来事
おせっかいな神様のステキなイタズラ
~ジャムトーストを添えて~
【過去の回想】

事が定石通りにベルトコンベア上を進んでいるのなら、娘の震える指先があなたの顔を捉えて離さない。

 

あなたに用意された席は娘の隣である。
定年が間近に迫る年配の先生からそう告げられる。
なぜといって、かなり都合良く娘の隣が空席なのであるからそうなのである。
これは有史以前から何かしらの理由でそう決まっていて、星々の運行のように正確且つ周期的なものであり、ここであなたの〈教科書を忘れる〉という予定とそう大差のない定型である。

教科書を見せてもらう際、なんでアンタなんかにとか、しょうがないわねとか、娘から一方的に嫌悪感を丸出されている状態のあなたなのであるが、しかしあなたがこれまでに行なったことと言えば自己紹介くらいなもので、なぜこのような仕打ちを受けなければならないのか、その理由がまったく判らず、自身の置かれた境遇を呪ってみたくなるかも知れない。あなたが人生におけるある種の諦念や達観を会得しているのなら、やれやれと肩をすくめてしまうかも知れない。やれやれ転校早々先が思いやられる、という具合に。
しかしこれはほんの少しだけ諦めずに待ってみて、決して損はしない類の話なのである。

体育以外の授業風景は諸事情により、というかスポンサー的なアレにより割愛される。

 

放課後。
親しい友達のいないピカピカの転校生であるところのあなたは、おそらく一人きりで帰路に着く。
鞄を手に持ち、教室を出る。
前方には件の娘。
娘の後ろをあなたは歩く。
前を歩く娘。後ろを歩くあなた。
前に娘。後ろにあなた。
もちろんこれも定型であり、あなたと娘の間に、カチリカチリと歯車が組み立てられる。
人気のない丘を登り、夕陽が街並みへと消えかかる頃に至ってようやく、先に業を煮やすのは前を歩く娘の方である。

「なんでついてくるのよ」

このような手合いに対し、質問を質問で返すという行動は愚行中の愚行であり「なぜお前が俺の先を歩いているのか」と問い返してみたいという好奇心なんぞは、ひと思いにキュッと絞め殺すべきである。ここは素直に「俺ん家こっちだから」と返すに限り、この類の物語はベターに事を進めることこそが肝要なのだ。

「別の道で帰りなさいよ」

娘は〈必然〉が人型を成したような娘であるから、まず間違いなくこう言い返してくるパターンの〈必然〉なのである。
そこであなたはこう思う。自宅と学校とはほとんど一本道で結ばれており迂回路などないのだが、と。
あなたはそのような思考を「いや、その…」という曖昧にすぎる前置きから始めて〈必然〉に伝えようと努力する。
そこで一陣の風が吹く。いや、〈必然〉が自身の半径50メートル以内にのみ風を吹かせる。〈必然〉のスカートがたなびきめくれ、あなたは絶対的な不可侵領域を目撃する。

「何も見てない」
「変態!」

ラッキースケベ〉とは何かの思惑によってそのすべてが仕組まれた〈必然〉という機構のほんの一部分を切り取った現象にすぎない。娘が〈必然〉そのものであり、その一部を成す不可侵領域が〈ラッキースケベ〉として機能しているという事実が何よりの証明である。
無意識的に間の抜けたリアクションを採ってしまったあなたは、くっきりと紅葉型に腫れた左頬を土産に持ち帰ることになる。これはもちろん通過儀礼であり、これより先に進むための通行手形である。

 

翌朝。
ネクタイの存在意義を脅かしかねない造作で、丹念に丁寧にノットを緩め終えたあなたは、二度目の登校をするべく玄関を開ける。
そこで〈ラーメン屋で隣の客と水を飲むタイミングがかぶってしまう現象〉と同種の気色悪さが寝起きのあなたを唐突に襲う。隣家の玄関が同時に開くのだ。

隣家の玄関には〈必然〉。

「何でアンタがここにいんのよ」

朝っぱらからではあるが我慢が肝要である。この先、この類の我慢すべき場面は山ほどあるのだから。ブルペンでの肩慣らしであると思うと良い。

「ここ俺ん家だから」

あくまで素直に。一問一答形式を崩さずに。Q.1に対してはA.1で。そうすることで〈必然〉の方から勝手に仕掛けてきてくれるし『雄弁は銀沈黙は金』なのだ。どう足掻いても〈必然〉の思惑通りに事が運んでしまうような段階であるならば、こちら側の手数は最小限に抑えるべきだ。言うべきことだけを言っておけば良い。特にあなたは我慢を強いられる類の立ち位置にいるのだから。効率を考えて行動していないと精神力はもとより、話数から足りなくなる。

プログラマティックな仕草で天を仰ぐ〈必然〉。癪にさわるがスルーして良い。スルーするに限る。とりあえずのところ、君の仕事はここでひと段落する。〈必然〉の悲鳴でカメラが上空にパンし、EDテーマが流れるからだ。

ふう、一件落着。

 

 とはならない。

 

 

〈必然〉というものは人気がない。
ある意味において。

そのように精巧に造られすぎているキャラは、精巧に造られすぎているが故に魅力的に見えない。言葉のひとつひとつが一糸乱れぬ歯車の噛み合う音に聞こえ、やはり作画は乱れず、すべてが予め定められたビスクドール。観賞用としては悪くない出来だが、そう、あくまで観賞用として。そこに留まり、そこより先はお勧め出来ず、その先に踏みいろうとするのなら、あなたは無数の歯車に巻き込まれ粉々になり、やがてペースト状にとろける。歯車の潤滑油として機能することになる。いわゆる「ケツの毛までむしられる」というやつだ。
まったく、世知辛いことこの上ない。

 

そのように百害あって一利なし風な〈必然〉であるが、昔から言われているように馬鹿と鋏は使いようである。

使用法はいたってシンプル。出来る限り行動を共にする。ただそれだけ。

そう。ただそれだけをひたすらに12〜13話ほどこなせば良い。場合によっては24〜26話になったりするが、まあそれはそれ。最近では2分割されたりもするのでご安心を。
〈必然〉の見分け方については最前に述べた通り、〈初日に何かとイチャモンをつけてくるヤツ〉である。そしてそれは高確率でツンデレである。この傾向は21世紀に入り、より顕著なものとなっており、見分けるポイントのひとつである。
そして〈必然〉と行動を共にしたあなたは、おそらくひとつの解答を得る。

普通が一番だ——と。

つまり〈必然〉と行動を共にすることであなたなりの〈普通〉が解りますよ、という簡単なお仕事です。
何をもって〈普通〉とするのか、その解は個々で違ってくるのだけれども、そいつも含めて解る。
今まで普通じゃないと思ってたことって案外〈普通〉なんだな、みたいな。
およそそのような荒療治。理想で曇りきった色眼鏡をサラサラに粉砕するための1クール、もしくは2クール。
結局のところはちょっとクセのあるモブキャラあたりに落ち着いて、穏やかな日常を手にする。そういうのでちょうど良い。そういうのがヒロインで良い。

 

さて。
そのような日常を手に入れるためには、まず〈必然〉——つまりツンデレを手なずけなくてはならないのだが……

御客様各位

『9』

『10』よりも『1』だけ少なく、『1』から順に数え9番目に位置する自然数
素因数分解で『3の二乗』。
『7』に『2』を足す。『61』から『52』を引く。そうすると『9』が現れる。


私が『はてブ』を開始して早4か月余。
アクセス数0件などは当たり前で、たま〜に1件ほど入っていると、
と私は呟き、知らぬ間にProject2501と融合する。



これは私が私自身に必要だと思い、つくり始めた彼岸である。

そんな独りよがりな彼岸を、
「さて、歩いてみようか」
と思ったりする御仁は、私が思うにとても酔狂な御仁であり、非常に有難いと思う反面、どことなく申し訳ない気持ちが芽生えてしまうこともまた事実。



『9』件。
『9』件である。
これはアクセス数の話であり、それもたったの一日で。

「9名様ご来店です!」

この報は戦慄を帯びている。キッチンにピンと糸が張る。手で触れそうなほど。
その数字は文字通り、桁違いの一歩手前。
その数字に私は生唾を飲み下す。
まるで、そうすれば落ち着くはずだ、と自らに言い聞かすように。
しかし駆け付け一杯カルアミルク属性が複数名いないことを祈ることしか私には出来ない。
あまりにも無力だ……。



この雑多にすぎる彼岸へ到る道程としては、やはり読メであろうか。
私のプロフィール欄に当彼岸のURLは載せているものの、それは「まあ一応ね」というノリとしての記載であり、申し訳程度の追記でしかない。
せっかくプロフィール欄があるのだから、何か書いておこう。でも何を書く?何かしらのURLを載せていたらそれっぽくなるかな?そうだね、何もないよりは良いよね。という気まぐれ。
カンチガイ的オシャレ番長が頭に乗せている〈楊枝入れサイズのハット〉のようなワンポイントに過ぎず、頭が空いているのだから、何か乗せないと。
およそそのような脅迫観念と等しく、つまり意味はない。



『9』を書く。
丸の部分を大きくとってしまうのは私の癖であり、そのぽっちゃりとした『9』は丸の部分が大きすぎるため、ときに『0』っぽくも見えてしまう。急ぎ足の筆運びだと約93%で一致。同一人物と見なして良い。
こちらから見て丸の右にあり、上下に伸びる直線——私のはいささか短すぎる——が定食の味噌汁よろしくちょこなんとあるおかげで、その『9』は『0』になるのを辛うじて免れているという塩梅だ。
定食であるからには味噌汁がなくては始まらぬものだし、やはりあの直線がなければ『9』が始まらない。しかし私が『090』と書いてみて、「最近の携帯は『000』から始まるものもあるのか」、と要らぬ臆測を呼びかねないのもまた事実だが、人の思い込みというやつは思いの外とても頑丈に出来ており、仮に『000』と殴り書いてみて、「これはきっと『090』と書きたかったに違いない」、きっとそのように脳内で自動修正されてしまうはずである、と勝手に臆測を立ててみる。
臆測ですよ。



『10』へ行くには『9』は避けて通れず、『9』にたどり着いてしまったからには『10』を目指したくなる。人情としてそうある。
『10』に行き着いたとして、『11』を視野に捉え、あわよくば『12』。『13』は何やら不吉な気がするので早々に去りたいところであるが、往々にしてそこで足止めを食らうことになる。つまりそれが『13』足る所以である。人生としてそうある。そして何かしらのはずみで『14』へ抜けることになる。そこからは割と滑らかに進むはずであり、『99』あたりで一度立ち止まってから深呼吸をする。それは『100』という実感を噛みしめるために必要な儀式で、次は『999』。
では、なぜ狐は『9』の尾で打ち止めとしたのか?
答えはおそらく『キリがないから』。



野球はなぜ9回までなのか?
なぜ1チーム9人なのか?
なぜ三振を3回、つまり9回の空振りで攻守交代するのか?
どうやら『3』という数字がその謎を解く鍵であるらしいが、生憎と私は野球が苦手であり、というか球技全般から絶縁状を叩きつけられている人間なのである。
しかし、なぜかフォームだけは褒められる。褒められるたび、ただひたすらに口惜しい。

「フォームは良いよね。フォームは」

この繰り返しには明らかに他意が含まれており、そしてそれが事実であるが故に、ただひたすらに口惜しい。
ボールと意思疎通を図れず、友達関係とは一方通行では成り立たぬようだ。
不思議と恋心は成り立つ。





そんなこんなをつらつらと書き記しているときでも、また新たな観光客がこの彼岸を訪れては去ってゆく。
ほとんどが同一人物によるアクセスかも知れないが、それはそれで十分に有難く、十二分にこっぱずかしい。

九分九厘くらいで申し訳ない。

残りの一厘が何なのかは分からず、それは彼岸の向こう側、即ち此岸に在るのだろう。
その一厘に到るための九分九厘が堆く積もる処。
それこそが当彼岸に御座います。


何卒、良しなに。

Tポイントカードを作るタイミングがわからない

必要なのは単三か単四か
それが問題だ


約300円が生きるか死ぬか
コンビニの電池売り場で
Live or Dieの瀬戸際に立たされたぼくは
頭のなかでリモコンのサイズ感を
多角度的に3Dシミュレートしつつ
確か単三だったよなと思うそばから
いや単四だったかも知れないと思い直す


〽︎どちらにしよおかな
〽︎イニミニマニモ

そのようなリズムで
東もしくは洋の神々に
この二択の選択権を委ねるのは
あまりというかとても気が進まない
「汝に試練を与えん」
とかそんなことを言われるに決まっており
大切な何かを捧げる羽目に陥りがちだ
ギリシャの神々の場合は特に


近くに湖がある場合は
湖の精が小林幸子的舞台装置で登場し
——貴方が落としたのは金の単三か銀の単四か
と聞いてくるに違いなく
そもそもの話何の解決にもならない
——そこが問題なのです
とイチから?イチから説明しろと?


左右の肩には単三と単四の営業マンがいて
「今回に限り安眠枕もお付けします」
とは決して言ってこないので
いまいち決め手に欠けるし
というかどっちでも良くなってきた
すでに頭の電池も切れかかっていて
そいつが単三なのか単四なのかは判らない
単三の営業マンも単四の営業マンも
どちらも玄関に右脚を突っ込んで
「是非お話だけでも」と聞かないので
外回りは大変だなあと残量3%の頭が思う


結局単三を買ってみて
いざリモコンの蓋を開けてみると
二本の単四が静寂とともに隙間なく
ぴつたりと入つてゐた
ああ、生きてゐる
とはならないのです京極先生


二択を外すという不条理
因果律の存在を確認し
高次の存在を意識する瞬間
信心深い者であればこの場合
おもむろに跪いて両手を組み合わせ
天を仰ぎながら陽の光に眼を細める
乗り越えられない試練などないのだ
とMっ気たっぷりに神に感謝を捧げ
単四を探しに巡礼の旅に出かける
この場合ギリシャを避けるのがベターであり
バチカンで謎組織の陰謀やらドッキリやらの
巻き添えを食らわないよう心すると良いよ


二兎を獲るという選択肢もあったのだと
今さらに冴え始める頭を呪ってみても
やはり切なさだけが募るばかりで
単三を力一杯握りしめてながら
斜め45度の角度をイメージしつつ
思いっきり遠投してみたくなるこの気持ち
歯を食いしばりながらそれに堪え
奥歯では二酸化マンガンの味が広がりだす
悔しさだけがひたすらに過充電される


大艦巨砲主義的思想は前世紀の遺物と化し
サイヤ人的際限なき戦闘力のインフレは
アナクロニズムの象徴にさえなりつつある
手の平サイズが幅を効かせる時代において
大きいことは良いことだという主張は
まるで愛煙家の肩身のように狭まり
きっと林檎人からヘイトスピーチを頂戴する
単三の場合が何かと多いような気がする
という思考もすでに時代遅れの老兵であり
死なずただ消え去るのみ、とその後に続くが
ジオングの脚は飾り』という説には
容易に頷けない何かがある


ゲームボーイ世代の私にとって
充電池の重要性は骨身に染みている
床に就く前の充電は当たり前で
電池が切れかかると画面を暗くしやり過ごす
通信ケーブルを持つ者はメシアであり
放課後を牛耳るアル・カポネであった
すげえゴーストがゲンガーになった!
ゲームボーイカラーの登場は鮮烈を極めた
ここいら辺から手の平サイズが台頭し始める


充電池を買うべきかどうかは頭になかった
単三なのかそれとも単四なのか
ただひたすらにそれだけが問題だった

人の記憶とは恐ろしく曖昧なものだと
人の判断とは恐ろしく揺らぐものだと

私の右手は胸前までは持ち上がるのだが
そこから先には進まずポケットへと消えゆく

その往復の数だけ記憶をさぐり
その往復の数だけ決心が揺らぎ

気づけばポテチを物色している自分に呆れ
うす塩ではなくのり塩に今回も落ち着く

単三か
単四か

ポテチは容易に選べるくせに
電池になると素直になれない
およそそのようなシーソーゲーム

とあるエゴと
とあるエゴにまつわる
とある恋話だけの特権ではない。

ヤラれたい奴から前に出ろ

フードプロセッサーという代物は
生来備わった残忍さに似合わず
バナナジュースとかを生み出すので
まったく侮れない。



「幽霊を信じてる?」

その問いに即答はできないけれど
試しにコンセントを抜いた
フードプロセッサーの中に
小指あたりをつっこんでみると
なんだか背筋がヒヤッとするので
まあ似たようなものもあるのかなと思う
その背筋にヒヤッとくるものが
バナナ幽霊の仕業なのかどうかは
ぼくの知るところじゃないけれど

「それはバナナたちの霊魂の仕業です」

バナナ保護団体の人だったら
口を揃えてそう言うかも知れない
主よこの者をお赦しください
とその後に続けるかも知れなくて
悔い改めよと続けるかも判らない
でもぼくはスイッチひとつで彼らを
絶望の淵に追いやることが出来たりする
そいつはほんの悪戯心にすぎないのだけれども
〈ON〉と記されたスイッチを
十指あるうちの右の小指あたりで
ポチッと押すだけ

「どうぞお召しあがりください」

彼らの眼前にバナナジュースを置く
ゴトリ、と音がするのは
つまりそれがジョッキだからだ



〈バナナ〉と〈牛乳〉
これが後にバナナジュースになる
〈バナナ〉と〈牛乳〉が
バナナジュースになるのは簡単で
フードプロセッサーさえあればいい
でもバナナジュースから
〈バナナ〉と〈牛乳〉を取り出すのは
土台到底絶対多分無理な話であって
こういうのを『不可逆』と言うらしい

「逆は不可です」

フードプロセッサーはそう言う
多分残念がっている
マフラーをほぐしてほどいて
また一から編み直す
そんな繊細にすぎる芸当は
どうやらぼくには出来そうにない
バナナジュースしか作れないんだ
彼はそう言って多分うなだれている

「イチゴジュースも作れるじゃないか」

これは気の利いた科白だろうか
彼は泣き笑いのような表情を浮かべ
スクリューをすくめてみせる

「バナナジュースをひとつ」

ぼくの要求にフードプロセッサーは
こっくりとうなずく代わりにウィンと
スクリューの駆動音でそう応えを返す
そうさ君には君の役割があるんだ
出来もしないことを考えたって
仕方がないじゃないか
フードプロセッサーが黙々と
〈バナナ〉と〈牛乳〉を攪拌している最中
ぼくは〈バナナ〉にするのではなくて
〈イチゴ〉にすれば良かったと
そんなことは口が裂けても言えないよ
『不可逆』な君にはさ



フードプロセッサーとハサミ
様々な改良を経て尚
〈大まかな形状は昔から変わらない〉
という点において似通っている
灰皿とかもそうじゃないかな
花瓶とかもそうだし
バールとかもそう
あとはそうだな
机の角とか

このように
これ以上変わりようのないものにおいては
しばしば凶器として重宝がられる性質を持つ
殺傷能力の高さは比類がなくて
その細部には死神が宿る
『Natural Born Killer』
生まれつきの殺し屋として
万人を屠りさる

しかしフードプロセッサーは
生来備わった残忍さに似合わず
凶器として使用された試しがあまりなく
せいぜいやれても小指を落とすくらいだ

「落とし前ってやつはそれくらいで十分さ」

なにも命まで奪うことはない
彼はそう続ける

「小指を落としてしまったら君を〈ON〉できないよ」

ぼくは左手で右の小指をさわりながら
困惑の色を隠せずにいる

「人さし指があるじゃないか」

そうか
それはまるで
君にとっての
〈イチゴジュース〉

Yes
Never give up.

コロッケさんはコロッケのモノマネをしない

イヤホンと思春期は少し似ている。

例えば狭くて閉じられた暗所。状況的には密室。つまりミステリ小説で謂うところの〝ロックドルーム〟。
そのような条件を満たす場にイヤホンを放り込むとどうなるか?

絡まる。

これはどうやら絶対不変の真理であるようで、バッグの中やポケットの中にイヤホンを放り込むとどうなるか。過去の経験を振り返ってみてほしい。絡まった結び目1つを1点とカウントした場合、試しに10ラウンド行なってみて少なくとも13点は獲れる。これは得点圏打率が高いなどという範疇をひょひょいと超えており、どうもそのような次元をしれっと超越しているっぽい。つまり絡まることは当たり前にすぎる事態で、ときにしつこい。

イヤホンと思春期は少し似ている。

例えば狭くて閉じられた暗所。状況的には密室。つまりミステリ小説で謂うところの〝ロックドルーム〟。
そのような条件を満たす場に思春期の真っ只中にいる人を放り込むとどうなるか?

絡まる。

これもまたイヤホン同様、絶対不変の真理らしい。人によっては1ラウンドで2、3回絡まる。思春期が絡まる。そして二重三重に絡まったイヤホンを解くことが容易ではないように、思春期を解くこともまったく容易ではない。

もやい結びや蝶々結びなどの秩序立てられた結び目には当然、解き方というものが存在する。紐の端を引くなり押し込むなりすればスルリと解ける。1ステップで解ける。解く際に力はあまり必要とせず、そういうふうな効率の良い仕組みになっている。
しかしイヤホンの場合。こいつはバッグの中やポケットの中で、もやい結びや蝶々結びになったりしないということが判明している。絶対にあり得ないとは言い切れないにしても、まず起こり得ない。ポケットの中で戦争が起こる可能性はあれど、ポケットの中のもやい結びや蝶々結びはあり得ない。Mr.マリックが登場してやっと五分五分かも知れない。Mr.マリックがもやい結びを習得しているか否かは当局の知るところではないが、少なくとも蝶々結びは出来ると思う。ハンドパワーは伊達じゃない。少なくともポケットの中のクッキーを叩かずに増やせる程度には。

イヤホンの話であった。
バッグやポケットの中におけるイヤホンの絡まり方の基本形はだんご結びである、と統計学的見地に立ってああだこうだと言ってみると多分そうなる。輪を作り、その中に端をくぐらせて作る単純な結び目。その単純さ故、ある側面から見て厄介な結び目だ。
解きづらいのだ。
結び目がこう、キュッとなっていたりした場合、とても手に負えない。爪でもって、何というかこう……うん、そうそう……そんな感じそんな感じ。爪の白い部分が許せない深爪派の私にとってはなかなかに強敵なのですよ。何とも取っ掛かりがないのですよ。主に左耳(L)が単独でだんご結びになることが多く、私はきっと統計学的見地に立っています。しかし右脳との関係は取り沙汰されてはいません。カナル式イヤホンの注意点として、解く際に広げる輪はある程度大きくしないといけない。取っ掛かりはなくても多分引っ掛かりがあるから。その点、特に留意すべし。詳しくは取説を参照のこと。

イヤホンと思春期は少し似ている。

絡まった思春期という代物は、もやい結びや蝶々結びといった出来の良い結び目ではない。ほとんどの場合はイヤホン同様、だんご結び。それを単純に2、3回ほど重ねたものであることが多い。解きづらいことこの上なく、しかし誰だって簡単に出来る結び方なのだが、思春期はその歪なだんごの重なりを妙に好む。解けないこと=誰にも理解され得ないこと。このだんごは自分だけが知っている真実。自身で結びあげただんごの重なりをそのように解釈し錯覚する。実際のところは、誰も好んで解こうとしていなくて、関わると面倒くさいだけであり、取っ掛かりがないと言うかただ単に率先して取っ掛かりたくないだけなのだが、みんなはまだこのことに気づいていないんだ僕だけが知ってるんだ、そう思うことでひとり悦に入る。当時を思い返してみて、そんな記憶の引っ掛かりがあるはずだ。しかしそれは存外に当人の勘違いであり、およそ思春期とはそのような水漏れの激しい閉鎖空間である。と我ながら思う次第であります。

思春期と密室は少し似ている。

一見して閉じている、ように見える。がしかし、どこかが開けている。どんなに注意深く作ろうとも、どこかが確かにどうしようもなく開けている。要するにいかがわしい。実際には密室なんて面倒くさい代物を作り上げる必然性はまったくなくて、現実の犯罪行為においては蛇足以外のなにものでもないのだけれども、それを想像すること——というより妄想することは非常に楽しいもので、これは思春期特有の痛々しい想像や妄想にも同様に言えることである。そのような蛇足に尽きる妄想とは、どこかが確かにどうしようもなくいかがわしい。完全な密室が存在しないように、完全な思春期もまた存在しない。ふと思春期のころを振り返ってみて、まったく赤面しない御仁がいないように、それは水漏れが非道く不完全である。違いと言えば、密室の創造者である著者はそれを意図的にいかがわしく作り上げるが、思春期はまったく意図せずに自然といかがわしくなる。胡散臭いと言い換えて良い。同じ綻びでも、計算内の綻びと、計算外の綻びとでは、その質を異にする。思春期と密室は少し似ている。

さて、ここで三段論法。
AはBでありBはCでありゆえにAはCである。
イヤホンと思春期は少し似ており思春期と密室は少し似ているがゆえにイヤホンは密室と少し似ている。

『ゆえにイヤホンは密室と少し似ている』

これは言えるか。

これらはまったく同じでなくて良い。つまり『少し』というところがミソである。『多少』と言い換えても良いが、そもそも『多少』という単語は果たして多いのか少ないのか。おそらくはそのどちらでも使用可能な単語なのだろうけれど、『多少』ってそんな便利な単語だったっけ?と多少考えこんでしまう。


そもそもイヤホンとは耳に装着するものである。では密室はどうか?
贔屓目に見て、これは困難である。と言うより不可能に思える。密室の巨匠として名高いカーでさえ匙を投げかねない。そもそもの話として『耳に装着する密室』という文の意味が判らない。この点については似ていないと言って良い。カーを悩ますのは本意ではない。

音を出すのがイヤホンで、死体を出すのが密室、と仮定してみて、これはどうなのであろう?似ていると言えるか?
適当な信号を与えるとイヤホンは音を出す。これは良い。
では密室に適当な信号を与えてみましょう。怨恨とか痴情のもつれとか、そんなやつ。さて死体は出てくるのでしょうか?と期待に胸を膨らませてみて、しかし死体を出力するには信号を与える対象が違うように思え、そのような信号は密室自体にではなく、おそらく一番犯人らしくない人物に与えるべきである、とそれがそもそもの話だったりする。H・Mもそのような人物を探せと仰っていました。イヤホンと密室の回路機構は、どうやら根本からして違っているようで、密室とは所詮、ある種の厄介なパッケージでしかないのかも知れない。タレとかが入っているマジックカット仕様のやつとか。おそらくはそのような手合いだ。


イヤホンは絡まる。では密室は?

絡まる。
主に話が。

限りなくグレーに近いブラック企業と限りなくブラックに違いグレー企業とはどっちが良いのか

プレーリードッグプレーリードッグである。

この一文はまさに、プレーリードッグプレーリードッグである、ということを示している。一分の疑問や疑念すら滑りこむ余地がなく紛れもなく、プレーリードッグプレーリードッグである。そう言いきれる。しかし名前にドッグが付くほどドッグドッグしてはいない。対してシェットランド・シープドッグはドッグドッグしている。その名前同様にその見た目もドッグドッグしており、これはもう正真正銘のドッグと言える。両者を見比べてみて、やはりプレーリードッグは言うほどドッグドッグしていないな、という印象が強まる。プレーリードッグプレーリードッグであるが、果たしてドッグなのかと問われたとして、さてどうだろう、ドッグであると断言出来る自信は、今のところあまりない。ひょっとすると、ドッグではないのかも知れない。そんな予感がひらりと脳裏をよぎる。そしてこの予感はとても重要なことのように思える。

結論から言って、プレーリードッグはネズミである。名前にドッグとあるのにドッグではないらしい。『紛らわしい』と『間際らしい』くらいの間柄で紛らわしい。この喩えは適切ではないのかも知れない、と言ったそばからそう思う。プレーリードッグの名前に『ドッグ』と付け加えてみた人物の気持ちにそれとなく近づいた気がする。

プレーリードッグの鳴き声はイヌのそれに近いのだという。つまり外見ではなく鳴き声がドッグドッグしているということらしい。外見は内面を映す鏡だと言うが、なるほど、その裏側は鏡には映らなくて、と言うか映せない。プレーリードッグの外見は、その名前と関係がなかった。つまりだ。犯罪者の部屋からバイオハザードが見つかったとしても、事件とはなんら関係ない。あるいはそう言えなくはないか。鳴き声が先にあって、たまたま名前がくっつく。そういう人間性が先にあって、たまたまバイオハザードがくっつく。名前が鳴き声を作らないのと同様に、バイオハザードは歪んだ人格の形成に寄与しない。そもそも人はネズミにドッグを感じるような、ある種の歪みを持った人種なのだ。自分が歪んでなんていないなんて、どうして言える?もう恋なんてしないなんて言わないのならば、それに関して言えないのと同様に歪んでなんていないなんて言えないよぜったい、と続けることが90年代からの習わしであり掟であり日本人としての美徳であるはずだ。プレーリードッグはキスしたりハグしたりしてスキンシップを図るが、その一部はリスを殺す。食べるためだけではなく、ただ殺すために殺す。文字通り、殺害する。自分たちの餌を確保するために。草食性の動物が温厚だなんて、どうして言える?いいや言えない、と反語を駆使して変則的に攻めてみる。マッキーの言い回しは紛らわしいので。少なくとも次からはプレーリードッグを『さん付け』で呼んだ方が良い、とそれだけは確かに言える。

『プレーリー』とは『草原の』という意味であり、主に北米の草原地帯のことを指す。しかし北米の草原地帯を私は知らない。まず前提として、見たことがない。テレビの画面越しには観たことがあるかも知れない。プレーリードッグをテレビの画面越しで観たことがあるので、きっと北米の草原地帯も観たことはあるのだろう。でも実際には見たことがない。同様にプレーリードッグも観たことはあっても見たことはない。違いとしては『観た』と『見た』。この両者の間には仮想と現実の違いが歴然と横たわる。パワプロでホームランを打つのは簡単だが、バッティングセンターでホームランを打つのは難しい。バントでホームランを狙えたファミコンの時代はとうに過ぎている。

すっくと、おもむろに立ち上がるプレーリードッグ。クリクリとした黒目がちな両の眼を遠くに据えて、前脚は行儀良さそうに胸の前。黒ずんだ鼻がヒクヒクしていればなお良い。可愛い。しかし殺し屋なので油断は出来ない。クリクリとした黒目がちな両の眼はそのつぶらさに反し、虎視眈々と我々の命を奪う契機を見定めているのかも知れず、胸の前で行儀良く揃っている前脚に関しては言わずもがな凶刃である。黒ずんだ鼻は死の匂いを敏感に嗅ぎとる。ヒクヒクと。小悪魔と言うか小死神。合コンの席で、上記の要素を備えた女子と遭遇してしまった場合は、実のところ気の毒としか言いようがなく、我々に出来ることと言えば生きて帰ることをひたすら祈り続けるだけだったりする。小死神女子の前で、男という生き物はリスに等しく、つまるところ無力だ。

小死神女子は小死神女子である。
この一文はまさに、小死神女子は小死神女子である、ということを示している。一分の疑問や疑念すら滑りこむ余地がなく紛れもなく、小死神女子は小死神女子である。そう言いきれる。一部の専門家からプレーリードッグとの類似性が指摘されてはいるが、しかし小死神女子はあくまでも小死神女子であって、決してプレーリードッグではない。小死神女子から獣臭がしないことからも、やはりそうだと言える。往々にしてシャンプーの匂いをすれ違いざまに放つことが多い。プレーリードッグはリスを殺し、小死神女子は男をコロす。リスと男の類似性が指摘されて久しい昨今、やはりプレーリードッグと小死神女子はイコールで結べる関係性である可能性が高いのではないのかとの意見が後を絶たないが、しかしプレーリードッグは自撮りをしないという事実から見て、やはり異なる種であるとの結論に至る。プレーリードッグは決して『いいね』を要求せず、小死神女子は自虐的かまってちゃん要素を自撮り画像の全面に押し出してくる。小死神女子について最新の研究内容によれば、ハエトリグサとの類似性も指摘され始めているとのことだが、その真偽は未だ定かではなく、目下審議中である。

小死神女子はとても女子女子してはいるものの、しかし女子と言うには年齢を重ねすぎている場合が多々見られ……

早起きは三文文士の生産性に等しい

オト。おと。音。
電子音。
意識の胸ぐらをふんづかみひねり上げる電子音。ブウウーーーーーーンンンという音ではない。もっとデジタルな音。つまりは電子音。その一種乱暴な行ないに対し意識はその意識を失うことなく、かえって意識の解像度は増していく。スリープモードをENTERキーで叩き起こす。その一打はしかしPCを破壊する程ではなく、それはアラームにも同様に言えることであるらしくて、意識は刺激されるだけで破壊されるまでには至らない。毎朝起きるたびに意識をぶっ壊されていてはたまらない。
偶然とは神の存在表明なのだろうか。寝返りを打つどさくさでアラーム解除に成功する。腕立て伏せに似た要領で半身を起こし、180をのそりとかまして布団の上でおよそL字の体勢を為す。

9時31分。アラームの起動から1分の経過。機械に起こされ、ほぼ無意識的機械的アンドロイド的な反応のもとに過ごした1分間。今布団の上でL字の体勢を為す存在は果たして人か機械か。そのような議論を朝っぱらから繰り広げるのはまっぴら御免だと思考して、どうやら人であると思って良いとの結論に至る。アンドロイドと哲学者は自身の存在に疑問を持つよう予め設計された存在であり、一方で服屋の店員はそんなことを考えない。
しかし考えるだけ無駄なことを考えるのが人であり、その行為には愚かしくも魅力的な一面が確かに存在する。これは自己満足の類いに属するものだと思うのだが、しかし満足とは突き詰めてみて全て自己満足なのである。他者満足という言葉の響きにはなぜだか無性に寒気を感じてしまう。微笑みの下に狡猾な意思が隠されているものが偽善だとして、それと同質のレトリックを感じてしまう。この思考こそがつまり考えるだけ無駄なことなのだろうなと、便所に向かう足で考えるでもなくそう思う。

溜まったものを出す。排泄行為の快感と持論を他者に対して垂れ流す快感は似ている。そこには行為を隠すか隠さないかの違いしかないようにも思える。排泄物を体内に溜め込むことは害であり、同じく持論は内心に溜め込むことで腐り、やがては精神を蝕み始める。対話者が己ただ一人という状況が恒常的に続けば、いずれ精神に異常を来たすことは疑いようがなく、想像するだにどうにかなりそうである。長年の間精神の水底に寝かし続けた持論とやらは実際に受け取り難く、これを拝聴することはつまり汚れ仕事に他ならない。流れがなくては腐る。これは自然の摂理である。つまり腐る前に排泄することで、相互にスムーズで耐え得る程度にクリーンな持論のキャッチボールが可能となる。捌け口としての他者。聞き手は受け皿である。どうやら腐る寸前ギリギリ手前にある持論をどうぞお召し上がりください。腐る寸前が美味しいらしいですよ、という付け加えも忘れない。人はどうも無駄で出来ているらしいな、と用を足しながら便所にて思う。

一日は米研ぎを行うことで幕を開ける。計量カップを擦り切り一杯で二杯。きっかり二合。その内訳とは、その日の晩ご飯に割り当てる一合、次の朝に割り当てる一合。一日二合。三日で六合。六合食べて四合戻すことはしない。

米を研ぎ、炊く。この作業を経ることで、あの固い米粒が柔さと温かさを獲得し食べられるようになるのだ、と最初に考案し巷間に伝播させた人物とは果たして。米粒を研いで炊く、というどのような過程から発生したのか分からない角度の着想。限りなく無に近い状態から有を作り出した人物であることは間違いがなく、その時米粒に宇宙が生まれたのだと言ってみて、それは誇大広告であるという反論を試みる者は、米を主食とする日本にいないのではなかろうか。そのどこでどのようにシナプスが接続されたのか判じかねる着想に畏怖の念すら覚えるのが日本人としての正しい在り方なのだとも思われる。まあ偶然の悪戯という線も捨て難いのではあるが。

先人の知恵とは偉大である。研ぎ汁をシンクに流し込む行為を都合二回済ませたところでそう思う。水位を二号の目盛に合わせ、釜を炊飯器に収め、三十分間待つ。この三十分間の放置という行為もつまるところ先人の知恵であり、『米を美味く食べる』という行為の追究によるものだ。「食は文化」なるほど正しい。

日本文化である『深夜アニメ』の録画を観る。朝ごはんを食べながら観る。白ごはんと漬物。断っておくが決してお坊さんではない。そして最近のお坊さんはハンバーガーも食べる。大抵の場合、朝ごはんはアニメの前半部分を消化したあたりで食べ終わることになっているので、残りの半分は歯磨きをしながら観る。複数の行為を同時に行う。プログラムめいた行動。再びアンドロイドに近づく気配を見せはじめる。しかし片手間で見るアニメというものはあまり記憶に残らないものである。ちなみに電気羊の夢は見たことがない。いや、電気羊の夢を見た記憶を脳内からサルベージ出来ないだけなのかも知れない。ついさっき見たはずのアニメの内容を思い出せないように。歯磨きは15分かけて丁寧にやるくせに。やはり どこか プログラム めいて いる 

歯みがき・うがい・しゃべらない。口内清浄における三原則。は・う・し。How see?これといって特に誰かの、あるいは何かの様子をうかがう必要などまったくなくて、なんとなればたった今思いついた出鱈目なのですごめんなさい。むしろサンプリング元の原文を思い出す際にこいつを先に思い出してしまうようになったら困る。そのように思考回路上の障害になりかねないことから、こんなどうでも良い三原則なんてガラガラペッで排水口へ流すに限る。無言で。ここで〝は・う・し〟の〝し〟に縛られるのは予想だにしていなかったので、ついでに顔も洗っておく。無言で。再びの〝し〟。タオルで顔を拭きスッキリしたところでやはり無言なのは、〝し〟の影響も少なからずあり、加えて現状が一人暮らしだからなのであって、しかしたまに独り言を唐突に繰り出す場面もあります。敬語で。実家にいた頃よりその頻度は突出しており、疲れているときにより多く発声している傾向が見られます。安心して良い部分としては、別人格の存在を疑うほどには多くなく、別人格の様子をうかがう必要は今のところまったくない、ということくらいでしょうか。これが嘘かそうでないか、全てが嘘であるかも知れず全てが真実かも知れずほんのちょっとだけ嘘かも知れずほんのちょっとだけ真実かも知れず。
Epimenides says "All Cretans are liers."
「この文は偽である」

支離滅裂な思考を撃ち抜くにはうってつけの読書。友人からタイ土産として貰った栞を引き抜き昨晩の続きから。おさらいもかねて二頁ほどの時間遡行。紙上にxy軸の二次平面を展開する。y軸上をマイナス方向へと移動し、x軸上マイナス方向にはほんの少しだけ。そういう変位でもって活字を追う。物語が昨夜に追いつき追い越す。右足が未踏の地へと踏みこむ。紙上の時間が動きだす。物語は予め定められており、すでに紙上に著され終わっているものであり、それは不変の事実であり、読者に出来ることはそれを終わりまで読みなぞることだけだったりする。この物語の結末はまだ知らない。ということを読者は知っている。それを確かめるために読み進める。そしてその結末を知らなかったことに安堵する。それは予め知っていて、しかし無限個で存在するタイプライター猿の少なくとも一匹がシェイクスピアになり得るのであるならば、とある小説の結末を事前に読者が知り得る可能性もゼロではないのではなかろうか。いや、これはあくまで予測の範疇を出ないものであり、つまり可能性で語り得る話ではないのだろう。でも少しだけ魅力を感じてしまう考えではある。

小説は活字の砂山だ。秩序立てられた文字の砂山。文字の一粒一粒が在るべきところに置かれた砂山。その砂山から一粒の文字をランダムに抜き取ったとして、その文字列は依然として砂山と言える代物か。それが砂粒であれば、まあ砂山と言えるだろう。砂の一粒如きで砂山の存在は揺らがない。ではそれが文字だったらどうか。秩序立てられた文字列だったら。おそらくそれは抜き取る場所にも依る。冒頭もしくは末尾から抜き取る場合、疑い深い読者ならばその空白に何らかの意味を見い出し、そして《意味深な砂山》などという感想を得るだろうと予想する。その抜き取られた文字の空白部分を埋めるように、様々な解釈をひねり出し詰め込み、それなりにもっともらしい答えをこね上げてみて、きっとそうに違いないと一人合点する光景がまざまざと目に浮かぶ。作者のまったく意図しないところで、斜め45度の解釈が為される。反比例の弧を画く場合もある。わざと一文字抜いてみて、読者の感想とは果たして。少し見てみたい気も る。あえて一文字足してみたりしても良いい。これで±0。この数遊遊びは少しだけ面 い。特に意味はない。それが物語の中頃だと、出版社のお客様相談室に電話がかかる。

10時50分。そろそろ職場へ向かう時間だ。着替えに割ける時間は5分で、そしてそれが最初の仕事。服と言葉は他者に何かを伝えるという点においてその一致を見ている。加えて、他者から誤解されるという点においても同様に。そんな気がする。言葉には主語があり修飾語があり述語がある。服にも一応主語らしきものがあってついでに修飾語らしきものもあってつまりは述語らしきものがある。言葉は聴覚に働きかけ、服は視覚に働きかける。出力する形態や入力する感覚器は違えど、他者から発せられた情報を受け手側が自分勝手気儘に咀嚼し選り分けるというところが、なんだかとても似ているとぼんやり思う。「若者アスリートの肉離れ」と聞いて、右ふくらはぎあたりの故障なのか、それとも単なる菜食主義者なのか。この一文から2通りの解釈が可能なように、ひとつの服装にも様々な解釈を得ることが可能である。短パンに短パンを重ね着してみて、ダサいと思う人もいれば、斬新だと誉めたたえる人もいる。ここには多数派少数派という概念のために用意された椅子は存在しない。多数決で決まってしまう事柄にしてはあまりにも多様性に富んでいて、水のように不定形なものなのだから。言葉も、そして服も。主語修飾語述語。この一見して窮屈そうに映る書式の中で、縦横無尽に、生気溌剌に、その領域を拡げる言葉とは喩えて宇宙。限られた場所で材料で、それらのポテンシャルを引き上げて象られる宇宙。ときに足し、ときに削ぐ。宇宙は無限だ。いや、有限だ。多数決でそう決まるものではなく、宇宙はただそこにあるだけだ。言葉もただそこにあるだけで、服もただそこにあるだけ。様々な解釈があり、本当のところは誰も知らない。人は単純さの中に宇宙を見い出す奇態な生き物である。

さて10時57分。つまり2分の超過。急いで靴下を履く。タイムイズマネーとはいったい誰が言い出したのだろうか。朝の1分とは砂漠のボルヴィックに匹敵すると勝手に思っているのだが。つまりタイムイズウォーター。時間はまるで川の流れのように。社会は硬水だろうか、それとも軟水だろうか。

ブーツの靴ひもをしめて、ドアノブに手をかける。これもまた仕事のひとつ。なんだか眠たくなってきた。